旅行・地域

2012年12月15日 (土)

お身体が不自由な皆さん、安心して湖北路へ!

HP、ブログ界へ飛び込んで、最初にお友達になった人にyawaragiさんがおられます。

この方、すごい人です。定年退職後、自らの技能や趣味・関心を熟考され、自らの今後の人生をかける仕事として、「福祉タクシー事業」を立ち上げられました。

Img_365508_9918940_3身体に障害を持っておられる方、一時的に歩行に困難をきたしておられる方、高齢の方で移動手段に不便をきたしておられる方は、かなりの数にのぼるはずです。

あなたの足としてお気軽にご利用ください。”おもてなしの心”で応対させていただきます。」と、書かれていますが、 まさに、おもてなしの心では、この人の右に出る人はいないと思われるお人柄です。

たまたま、最近、滋賀県の「がんばるシニア起業家応援事業」の第1回として、yawaragiさんが取り上げられ、インタビューを受けておられる様子が、県のHpに紹介されています。

その中に、「人が寛げる雰囲気を醸し出す素敵な笑顔の持ち主の坂東さんが、事業にかける熱い思いや今後の夢について語ってくださいました。」とありました。さすが、プロはプロらしい目で人物を見抜いています。

この人のすごさは、もう一つあります
好奇心、探求心、行動力に満ち溢れた人で、近隣の名所、旧跡、観光地、行事をくまなく自ら探訪し、その素晴らしい写真を主体にHP、ブログ上に次々と公開しておられます。湖北観光に関する体系的な百科事典が出来つつあるようにも思っています。
Bannerタクシー利用者への観光案内にとどまらず、湖北路観光のスペシャリストとしての存在は大です。湖北探訪で迷われたら、ご相談されるのも一考かと思います。



料金をいただいているのに「ありがとう」と感謝してもらえる仕事と、感激しておられますが、yawaragiさんの本物の「おもてなしの心」に接したら、誰もが感謝の気持ちを表したくなるのは必定だと思います。

地域の方には、病院や施設への送迎、施設からのふるさと探訪、墓参などなどに、ご利用の道すがらお近くの観光案内もしていただけるかもしれません。

また、全国の皆さんには、近江湖北は、戦国期のみならず無数の観光地が狭い範囲に散らばっています。yawaragi号での旅に格好の地域です。決して、期待を裏切ることはありません。四季おりおりに様々な顔を見せる近江の魅力を、ご堪能いただければ幸いです。

写真  上 チラシです。    下 yawaragi号 ご利用の場合は、この電話番号をご利用ください。(ともに、yawaragiさんのブログから拝借しました。)

お断り  この記事、yawaragiさんの了解を得ずに書いています。あしからず。

2012年12月 6日 (木)

五先賢海北友松(ゆうしょう)の友情

この秋、小堀遠州四酔会と田根郷土史研究会の共催で「五先賢を京都に探る旅」が企画されました。

「湖山」に関わって「妙心寺」、「遠州」に関わって「金地院」と巡り、最後は「海北友松」の菩提所である「真如堂」を訪れました。

「友松」が、浅井家の家臣「海北善右衛門綱親」の五男で、父の戦死後唯一仏門に入り生き延び、画才を認められ狩野派に学んだことは有名です。今回の旅でも、あちこちで友松の作品を目にし、さすが武門の血を引く友松ならではの筆の跡を確認することができました。

Dsc03425何よりも、興味深かったことは、親交のあった明智光秀の重臣「斎藤利三」の墓と「海北友松」の墓が、ぴったりと隣り合わせに建っていたことでした。

明智光秀の謀反により、親友であった「斎藤利三」が本能寺跡で、その首をさらされていました。それを知った海北友松は、その首を見張りの武士に槍を突きつけ奪い去ったと伝わっています。

この時、長陽坊長盛という仲間の僧侶が大きな声で読経し、注意を逸らしたともいわれ、その僧が住職を務める真如堂に葬ったのです。友松は、自分が死んだらこのそばに葬ってくれるよう遺言し、この写真の通りになったというお話でした。

画家とはいえ、さすが武士の流れを汲む友松らしい武勇伝と聞かせてもらった次第です。

写真 京都真如堂にある二人の墓、手前が「斎藤利三」、奥が「海北友松」の墓です。妙な写真ですみません。 

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2012年11月 6日 (火)

亀塚古墳の持ち主は誰?

このほど、当館ふるさと歴史探訪で、開催中の企画展に協賛「北国脇往還を歩く」が実施されました。好天に恵まれ、案内人長浜城の太田さんの名調子に聞き惚れながら、内保町から馬上町までを歩きました。

その途中、現在展示中の「亀塚絵図」に描かれている「亀塚」前に立ちました。私的に言えば、中学時代の自転車通学路沿いで毎日眺めていた古墳です。

全長10mほどの、ホントに小ぢんまりした、でも円墳の形をしっかり残し、しっかり整備された見るからに可愛い?古墳です。
Dsc03650
これは、壬申の乱で敗北した近江朝廷側の中臣連金(なかとみのむらじかね)の墳墓と伝わっています。日本書紀に「中臣連金を田根で斬る」とあり、田根荘の名が国史に初めて登場する事件です。

ところで、この古墳は、誰の持ち物かご存知でしょうか

京都に在住のかつて京都植物園の園長もされた公家につながる○○家が所有していると聞いたことがあります。
京都植物園も戦前は、たしか恩賜京都植物園であって皇室につながるものでした。その園長を、公家の方が・・・・・、京都の公家が現在もそうした皇室関連の施設に勤めておられることは当然のことかもしれませんが、興味あることです

ところで、この古墳が○○家の所有になったのも、明治初年全国の天皇陵が整理された際、余ったものを分けてもらわれたと考えるのは、少々うがった考えに過ぎるでしょうか。

写真 「亀塚古墳」(長浜市八島町、珍しく西側から撮ってみました。}

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2012年10月 7日 (日)

砂山のこと

砂山」の唄で知られるような、自然に作られたものでない、「人工的な砂山」のお話です。

先日紹介しました大洞村を紹介する写真、その手前に写っていた藪、田川の堤防のそこだけこんもり盛り上がっています。

Dsc03456間違っているかもしれませんが、思い出すことがあります。

この田川の上流が、我が「田根荘」では、荒川・田根川と呼ばれています。その堤防道が、中学校への通学路でした。

その荒川が、折れ曲がった地点に、小高い山というか岡がありました。高さは10mはあったと思いますが、アケビやマメヅル(葛)が自生し、とても人間が作ったとは思えない大きさでした。

麓は、道普請の補修用土砂として、村人が削り取るのか、崖になっていて登りつける状況ではありませんでした。中学以来、どうして出来たのか疑問に思ってきましたが明快な答えを示してくれる人はいませんでした。

随分してからです。村人が荒川の川底に溜まった土砂をさらえ、運び、営々として積み上げて来たものだとの話を聞くことが出来たのは・・・・・。
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第2室戸台風だったか、堤防がズタズタになり大改修された際、その「砂山」も撤去され、そこにそんなものがあったことを知る人は、ほんのひと握となってしまいました。

あのこんもりした藪を、「砂山」と同じように、浚渫した土砂を積んだ所との推理、果たしてどんなものでしょうかね

写真 上 大洞村付近の田川堤防にある盛り上がった藪  下 田根荘荒川の「幻の砂山」のあった場所

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2012年10月 4日 (木)

見つかりました!

今回、公開された「虎御前山絵図」に描かれている現在はない東麓の「大洞村」について、述べて来ました。

二人のH先生に尋ねたところ、知らないとのお答えでした。3人目の郷土史にも明るいH先生にもお尋ねしましたが、この方も・・・・・でした。そして、地元の方を紹介いただきました。
Dsc03449その後、多くの方々から、様々な村の消え方について、想像していただき、ヒントをいただきました。崖崩れ、洪水、流行病などなどです。
なんか、ますます、興味が湧き、一日も早い解決を・・・と、願って来ました。

ご紹介いただいた方、お若いですが、合併前地域の要職にあった方で、流石よく聞き伝えて来ておられました。

確かに、いつの頃かまで、現在の虎御前山の登り口の町「中野」に対して「東中野」という村があったそうです。
その村が、古くは「大洞村」と、呼ばれていたのだろうとのことでした。

旧虎姫町の境界線は、旧湖北町別所の極く近くまで接近しており、その境界近くに「大洞村」はあったのです。

Dsc03456しかも、虎御前山の山腹、谷間に存在したようで、今もかつての氏神さんの跡地でしょうか、祠があるといいます。この地所は、中野町の所有地だそうです。

離村の理由は、定かではありませんが、山あいの集落であり、虎姫町からは遠く、道路も整備されていず、行政面、経済面から中野町へ転居されたと考えるべきではないかと思います。

現在も、中野町の○○姓や○○姓の人は、そちらからの移住者であると伝わっているそうです。

写真  上 虎御前山(中野山)全景  下 東山麓、「大洞村」があったと思われる谷あい、山裾(中央部分)

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2012年9月25日 (火)

秀吉拝領の甲冑

我が家の親戚○○家の蔵に、秀吉拝領の甲冑があると噂されてきました。見せてもらった人、有無を確認した人が、いるのかいないのか私は知りません

20111006_17074
もともと、この甲冑は称名寺(長浜市尊勝寺町・湖北十ヶ寺の一つ)に伝わったものだといいます。

賤ケ岳合戦前夜、軍を進めてきた秀吉が、この寺に逗留します。その際、作戦会議で、「ここより北に馬上(まけ)という村がある。OR、この先に北馬上(きたまけ)という村がある。」という説明を、称名寺の住職がしたそうです。

それを聞いた秀吉が、「北の負け」に通ずると大いに喜び、称名寺に甲冑を与えたというのです。

その後、称名寺が経済的に苦しみ、○○家に多額の借金をし、その返済ができず、そのカタに甲冑が移ったといいます。

甲冑の存在からして、危ういものですし、これらの話の信ぴょう性はどの程度あるのか分かりませんが、称名寺の借金のくだりを、同級生の專ちゃんから今回の小学校の同窓会旅行で聞いたもんですから、ご紹介いたしました。

写真 ○○家のものではありません。ネットから借用しました。秀吉から梶原家が賜った具足です。

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2012年9月22日 (土)

平清盛関連史跡を訪ねて3

長田神社 重要文化財の南北朝時代の修理銘がある神輿と鎌倉時代に寄進された石灯篭があります。
那須与一の墓 この墓所は、地域の人が交代で鍵の開け閉めをしておられるそうで、湖北の観音信仰に似た形態があることに興味を持ちました。
Dsc03249 須磨寺 六甲山の麓の高台にあり、駐車場からエレベーターで降りるという近代的な寺です。青葉の笛で有名ですが、江戸時代から「笛見料」を徴収し、収入を得ていたという、恐ろしく財テクに長けた寺です。
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一弦琴 一枚の板に一本の弦を張っただけの琴で、物寂しい優雅な音色が楽しめます。
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敦盛塚 寿永三年の源平合戦に当時十六歳の紅顔の美少年敦盛が、坂東武者熊谷直実に首を打たれた場所に建てられたという大きな五輪塔です。
 階段あり、坂道ありのコースではありましたが、全員揃って一万歩を超える全行程を無事に踏破できたことは嬉しいことでした。

写真  上須磨寺庭園の敦盛像  中一弦琴演奏風景  下巨大な五輪石敦盛塚
 




















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2012年8月29日 (水)

これも間違い

当ブログへのお客様が、「垣見助左衛門屋敷絵図」の写真に着目されました。この絵図には、かなり多数の付箋が貼られています。

当初、アップするときは、あまり気にしていませんでした。と言うより、その付箋、ガラスケース越しですし、折れ曲がっていたり、丸まっていたりしてよく見えません。それは言い訳で、ホントのところはしっかり読み下す能力がないというのが本音です。
Dsc03108_2
付箋の文字は細く美しく、朱の墨?で書かれています。

文化四年(1807)に描かれた絵図に、後代、付箋で書き足したものと思われます。適当に付箋の文字を読んで、改造したり、災害が起こったり、詳細に記録を残すために貼られたものと、考えたのです。

しかし、「大凶」と書かれた部分が有り、疑問に思っていました。そこへ会議で太田さんがやって来たので、尋ねますと、私も充分見てないんですよ、と言いつつも、即、解答を頂きました。

どうやら家相を見た人の見立てだといいます。そう思ってみると、「勝手六畳吉」、「竈二ッ三ッ四ッ五ッ八ッ吉」、「此間八帖半九帖、九帖は吉」、「此道に井戸有り吉」、「泉水築山大凶」などと、あります。

今も、「泉水築山」はそのままだといい、それだと「大凶」が気がかりですが日付らしきものもあり、期間を限定した見立てだったんだと思います。

写真 屋敷図の南側を流れていた川、地図では、小道を挟んで二筋流れていましたが、今は一本になっています。

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2012年8月23日 (木)

転合庵よ、どこへ行く!

昨年12月、「小室藩最後の日の記録」、「江州小室陣屋指図」、「彦根のどこかにあるはず」などと、書いてきました小堀藩小室陣屋の絵図には、茶室が2つ描かれています。

その一つが、「転合庵」です。転合庵は、小堀遠州の号でもあったようで、その名を茶室につけたもので、いくつか知られています。

ネットの筆頭にあるのは、東京上野国立博物館の裏庭にある「転合庵」です。これは、京都伏見の六地蔵から大原寂光寺を経て1963年に移築されたものとあります。

Img_395429_8640632_8とにもかくにも、小室陣屋にあった「転合庵」は、大正13年小堀家の手を離れ、その後、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、流転の旅を続け、現在は市内に解体されて保管されているといいます。

今回、この茶室を長浜の地に再建しようという機運が高まり、茶室「転合庵」里帰り実行準備委員会が組織されました。市長も招いての事業進発式?記念茶会が催されました。

ところで、気になるのは、一体どこへ再建するのかということです。

どうやら、五先賢の館が関わっているようですが、小室陣屋(城)内ではなさそうです。案内をもらっても、もう一つ微妙で様子を伺っている次第です。

写真 小室陣屋(城)内の、転合庵のあったと思われる場所。私のブログ上の大親友yawaragiさんの記事から、勝手に拝借しました。自宅から近いので撮りに行ったらいいんですが・・・。

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2012年8月20日 (月)

家臣垣見氏の屋敷図から

今回の展示替えで、文化四年(1807)に描かれた長浜市指定文化財「垣見助左衛門屋敷絵図」がお目見えいたしました。

「垣見助左衛門」は、浅井長政から小谷落城を目前にして、感状をもらった人物と同姓同名であり、おそらく、代々その名を継承して来たもので、垣見家は浅井家滅亡後、この時点で234年続いて来ていることになります。
のみならず、現在も土地を相続し生業を立てられており、実に今年まで439年にわたり、連綿として「垣見家」は続いてきているのです。

その屋敷図は、なかなか見ごたえのあるものです。
Dsc02889_6 地図には、宮川邑とあり、現在の宮司町であり、地図の右上は「(宮川)陣屋」に接していることになっており、陣屋跡が現在の「日枝神社」境内に比定されることから、その場所を特定することができます。

宮司町の総持寺の信号の1つ東の信号を南へ入ったところに、日枝神社がありますが、その道路をはさんだ西側一帯と考えられます。現に垣見医院があり、広い土地を所有しておられます。

この地図の特筆すべきことは、母屋、長屋門、酒蔵などの建築物の詳細な間取り図、泉水などを中心としたかなり立派な庭園、畑地などの土地利用の様子などが詳細に描かれていることです。

右上、陣屋に接する所には、陣屋隠居屋敷貸地とあり、公儀へ土地を貸し付けていたことも読み取れます。

長屋門の前に、若干の広場が有ること、川の水を引き入れて利用する井戸があること、周囲には4間半幅の薮が巡らしてあったことなどが描かれています。

現在展示中の、黒漆塗紺糸威胴丸(ヨロイ)、頭形兜(カブト)、籠手(コテ)などをはじめとする膨大な宝物は、どこにしまってあったのか、土蔵などもなく、不明です。

当館職員T君が地図や現地を確認してくれましたが、知らなかったのは私たちだけだったのかもしれません。

絵図 長浜市指定文化財「垣見助左衛門屋敷絵図」

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