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2012年12月 9日 (日)

井伊直弼が虎姫へやって来た!

私たちの田根荘を源流とする「田川」(過日、砂山として紹介した川です。)は、江戸時代琵琶湖の船が虎御前山の麓の丸山港まで登って来るという川でした。その「田川」は、虎姫学区で「高時川」の下をくぐっています。

これを、「田川カルバート」といい、そのハイカラな名前からしても、本格的な工事は明治中頃滋賀県がお雇い外国人技師を使い建設したものです。

A1026_l当初、「田川」は「高時川」に合流していたのですが、「高時川」の川底は年々上昇し、天井川の様相を呈し、「田川」の水がうまく流れ込まず、少し雨が降れば付近で溢れ出し、田んぼはもちろんのこと、近くを通る「北国街道」も水没してしまうという有様でした。大名行列なども、船や筏を利用することもあったといいます。

この水を吐く方法として、この川の下を川がくぐるというアイディアが生まれ、江戸時代から地域の人々の悲願として訴えられ、様々な曲折を経て、挑戦し続けられてきました。

嘉永3年(1850)、虎姫4カ村は領主に願い出、下流の庄屋に打診するところからスタートしました。しかし、容易に進む話ではありません。

安政2年(1855)、4カ村が大津役所宛に嘆願書を出しています。
その一節に「拾ヶ年之内七八ヶ年ハ水腐、(収穫)皆無ニ・・・・・」、「去ル子年井伊掃部頭様御順在之儀有之其筋前段村々土地柄見分之上御慈悲之思召ヲ以右悪水引取方御配慮彼成下・・・・・・。」と、あります。

嘉永5年(1852)「子年」に井伊直弼が情況検分のために來村していたことが分かります。
万延元年(1860)井伊大老が「桜田門外の変」で刺されるまで、あと8年です・・・・・・。

文久2年(1862)工事完成、明治3年改修嘆願書、明治13年御雇外人技師調査明治18年改修竣工、明治25年改修工事竣工、昭和4年、昭和31年、昭和36年改修、昭和41年鉄筋コンクリート製2連カルバート竣工

写真  「田川カルバート」の現在 上流虎姫学区側から  滋賀県HPより

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コメント

井伊直弼が來村されたのは、水害に困り果てた地元民が粘り強く嘆願されたおかげでしょうか。shineshine
『川の下を川がくぐっている事』初めて知りました、工事も大変だったでしょうね!

「桜田門外の変」で刺されるまで、あと8年です・・。」
何だか、NHKの「その時歴史が動いた」の松平アナウンサーを思い出しました。confident

この技術は素晴らしいですね。何回か写真を撮りに行きました。

HPには載せているのですが、その内ブログにも書こう
としていたのですが、先を越されました(笑)

サラダ記念日さんへ
川の下の川、せっかく出来たのに、細くて、あまり効果がなく、早速、改修の願いを出したり、洪水で壊れたりと、大変だったようです。
そのとおり、NHKの松平定知さんのセリフを真似たんですが、なんか少し違っているような?よく、ピンときていただきましたね。さすがです。

yawaragiさんへ
何回か写真を撮りに・・・、さすがですね。
書くまでに、撮りに行くつもりでしたが、いつものように・・・、HP拝見しました。yawaragiさんに借りたらよかったですね。

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