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2012年11月

2012年11月30日 (金)

早いもん勝ち

決定が遅れていて、もしかすると打ち切りかと噂されていた、再来年のNHK大河ドラマのテーマが決まりました。

三成か、光秀かとも言われましたが、なんと、「軍師官兵衛」秀吉の参謀役として全国統一に大きな役割を果たした黒田孝高(よしたか)、黒田如水です。

その発表の直後に、早速、写真のようなのぼり旗が当館にも届けられました。華やかな右側の大河博のものと違って、白黒の簡素なものですが、言いたいことが直截的に書かれています。

Dsc03792軍師官兵衛の黒田家発祥の地としての近江国伊香郡黒田村(現長浜市木之本町黒田)にあやかり、大きくこの地域を、もう一度売り込もうとする意図ありありです

昨年の大河ドラマ「姫たちの戦国ー江たち三姉妹」関連で130万人もの来場者を得て、今年、市長の肝いりで「二匹目のドジョウ」を捕まえんとしましたが、残念ながら思ったほど獲れませんでした。

そこへ、今回の話です。がっかりしていた長浜が飛びつかないはずはありません。「三匹目のドジョウ」捕獲作戦の開始です。

皮肉っぽく書いていますが、当館こそ、それに便乗、「戦国大河ふるさと博」フィナーレイベントとして、NHKチーフプロデューサーを迎え「戦国武将と軍師官兵衛」と題する講演会を開催することになっています。

この黒田出身説も、「寛永諸家系図伝」には書かれているものの、その後の文書にはなく、疑問視されてもいます。旧長浜市の西黒田学区も、名乗りをあげるとか、賑やかになりそうです。

写真 当館に立てられた「のぼり旗」、中央奥は郷土学習用「あずまや」建設工事の様子です。

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2012年11月27日 (火)

伊部本陣に無い真ん中の川

あちこちの宿場町の古図や写真を見ると、街道の真ん中に川が流れています。
これは、宿場を利用する旅人が足を洗い、馬を洗うために使用したものと思われます。

木之本宿でも、昭和10年ころまで、道路の真ん中に水路があることが、写真からもわかります。むしろ、その頃まで残っていたこと自体が、不思議だとも思えますが・・・。
Dsc03632その後、交通量の増加、自動車の普及などから、この水路は埋設され道路を広く使うようになってきました。

ところで、伊部本陣の場合は、どうでしょう。

江戸時代末期(文政年間)の伊部宿家数絵図を見ると、中央水路は描かれていません。一体どうなっているのでしょうか。

答えは、伊部本陣の場合、小谷山、雲雀山からの豊かな水量の川が幾筋もあり、街道を横断する形で流れているのです。

この絵図を詳しく見ると、何と街道を6箇所にわたって横切る川があり、それぞれに「はし」と書かれています。
Dsc03947ab_2街道に沿う川の場合、汚れた水が下流に流れることになりますが、横断する場合は絶えず美しい水が流れ込むという利点があります。

ただ、「はし」とあることは、蓋があるわけで使用する際にはそれを上げる必要があり、うまく元に戻しておかないと暗い夜道で川にはまる人が出ないのか・・・下世話な心配をしています。

写真 上 昭和10年頃の木之本宿(山路酒造さんご提供)  下 伊部宿家数絵図(文政3年1862)上が西です
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2012年11月24日 (土)

几帳面な伊能忠敬と伊部本陣

国内をくまなく歩き日本全図を完成させた伊能忠敬が、几帳面なことは誰でも想像がつきます。

当然ながら、忠敬は測量の途次、詳細な日記をつけています。何時、どこへ泊まり、何をしたのか、そして宿で出たご馳走についても記録しています。
Dsc03930企画展「北国脇往還」に関連して展示されている、伊部本陣肥田家文書にも、これまた当然ながら詳細な記録が残されています。その中には、何時、だれが泊まり、どんな料理を出したかについても、書かれています。

伊能忠敬は大名ではありませんが、幕府の命で測量しており、各地の本陣で宿泊を許され、伊部本陣にも泊まっています。

この日の?この夜の?食事の記録が、伊能忠敬の日記と、伊部本陣の記録とが一致するというのです。

これぞ、同時代文書がダブルで見つかるという正真正銘の歴史記録といえます。

なお、各大名は参勤交代に際して、料理人を連れ主たる食材は持参していたそうで、本陣は不足する食材だけ調達していたことも読み取れると伊部本陣の現当主が話してくださいました。

写真  展示中の伊部本陣海道帳、本文に該当する部分ではありません。

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2012年11月21日 (水)

「下総」と「上総」のこと

「上総」「下総」、これは、「かづさ」「しもうさ>」と読み、ともに千葉県の旧国名です。

滋賀県は「近江」一国ですが、千葉県はこの「上総」と「下総」、それに「安房(あわ)」の3国から成り立っています。

588a26b3dc570ec80e5bb7c49b697e2bこの3国、茨城県、東京都よりに「下総」、続いてその南に「上総」があります。地図で、上下は言わないにしても、上が「下総」、下が「上総」ということになります。

その理由は、都、京都に近いか遠いかで決まっています。
それでも、京都から東海道が日本橋まで来ていて、その後を歩いたとすると、どっちが近いか遠いかはっきりしています。どう考えても、「下総」にあたる地域が近いはずです。

その答えは、何か?

東海道が整備される以前は、東海道に海上交通の海路も含まれていたといいます。従って、江戸時代以前の関東方面との交通は海路の方が栄えていたそうです。

この海路を使うと、「下総」より「上総」の方が京都に近くなるということです。これで、一件落着ですね

2012年11月17日 (土)

お隣だから余計ややこしい

この夏、みちのく秘境めぐりツアーに参加しました。

旅程表に、前日に、五能線沿線の「十二湖、翌日は「十三湖」が下車観光地になっていました。ともに、青森県の観光地です。

ちなみに、「十二湖」は、これもややこしいのですが、実際は三十数個ある湖が、ある地点からは十二個見えるのでその名がついたといいます。

56607742この十二個の十二湖の中でも、群を抜いて美しいのが「青池」と呼ばれる湖(池)です。今もって、その美しさの理由はあきらかでないといいます。その池の水のコバルトブルーというのか濃い藍色は、今までにどこでも見たことのない、月並み過ぎて恥ずかしいですが、言葉では言い尽くせません。

是非一度と、どなたにもお薦めしたくなる観光スポットです。太陽光の加減もあるようで、日によるとも・・・。

ところで、翌日訪れた「十三(じゅうさん)湖)」ですが、これはたった一つの湖が、そう呼ばれます。シジミ漁で有名なこの湖の十三とは、13の河川が流れ込んで出来た湖だからだそうで、十三湖は(とさこ)と呼ばれていました。
Dscn3263ところが、元禄13(1700)年に、津軽家5代藩主・津軽信寿が土佐守に任じられたことから、それをはばかって「十三」は「とさ」から「じゅうさん」というハイカラな?言い方に改めたといいます。

かつて繁栄した湊町・十三も大津波や洪水などによって、砂山が残るだけになってしまったといいますが、この湖畔で食べた「しじみソフト」は、予想外に美味しいものでした。

写真 上 「青池」   下「十三湖」  都合により、ネットから拝借

2012年11月15日 (木)

ちょっと、心残り!

私たちの田根荘では、「子ども見守り隊」が組織され、手すきの者が登下校を見守っています。

この日、小2の孫娘に少し着いてゆくと、ちょっぴり邪魔にならない程度の小雨が降ってきました。先を見ると、同級生の男の子が、コウモリをさして行くのが見えました。コウモリは、通学には普通には許されていません。
Imagesca42ji06孫娘が、「カバンの中にカッパがあるか調べて!」と言うので、見ましたがありません。取りに帰って、自転車で追っかけますと、男の子が待っていてくれたのか孫が追いついたのか、二人が相合傘で、ニコニコ喋りながら歩いて行くのが見えます。

長い竹の塀の続く道に、二人の小学生の相合傘、前後に誰もいません。

一瞬、カメラを取りに帰ろうかとは思ったのですが、不思議な写真が残るのもいいのかどうかとも思い、そのまま追いついて、家にカッパのなかったことを伝えました。前日が、長浜城近くへの校外学習のせいでしょうか、全くの偶然、二人とも同じ日にカッパを忘れたことになります。

こんな可愛いことが出来るのは小2だからで、集合場所へ行ったら上級生に冷やかされることだろうなと、ちょっと気になりましたが丁度いい具合に雨が上がってきました。

私の姿を見て、恥ずかしそうに男の子から離れた孫娘に、追っかけるように傘を傾けて差し掛けてくれている男の子のやさしさに、なんともいえない幸せを感じさせてもらったひと時でした。

こんな偶然、2度となく、ブログ用にいい写真が撮れたのにと残念に思う反面、これで良かったんかもと自分を慰めています。

写真 申し訳ありませんが、ネットからお借りしました。「素敵な芸術写真」です。でも、実際はもっと親しげに歩いていました。

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2012年11月12日 (月)

亀塚古墳図からNo.2

続きです。

この図を描いた人のことについて、この図では、「慶長六年十二月三日 御代官様日下氏画之」とあります。

御代官様と、「」が付き、「」が付いていて、代官の描いた図を模写したことが分かりますし、この日付は、代官が描いた日のことと考えるべきでしょう。

Dsc03604当然ながら、慶長六年より後の人が模写したものです。(その意味では、当館展示の解説パネルの年号は、ちょっと気になりますが・・・。)

それと、代官の名が、「日下氏」とありますが、この地の代官として名を残す人、また、慶長年間に代官だった人は、「日下部善助」が知られており、模写した人が、写し間違いをしたものと思われます。

代官様のお名前を間違えるなんて、由々しきミスをすることから考えて、この模写は相当後の世の人が行ったと考えるべきだと思います。

この日下部善助は、以前「宿場免許の争奪戦に敗れる」(2012.8.31)で紹介した、尊勝寺村を栄えさせた人であり、慶長6年(1601)、徳川家康が本願寺の力を削ぐため教如を本願寺の門跡に復帰させる前、この地域に五村別院を建てた時、中心になった人物です。

写真 当館主催「北国脇往還を歩く」での亀塚付近、太田先生が説明中です。

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2012年11月 9日 (金)

亀塚絵図から分かること

正式には「右大臣中臣金之連御陵図」と題された、この図には興味ある記述があります。

その一つは、この古墳の存在する八島村(町)について、近江国浅井郡湯次郷田根荘八島村とあることです。

Dsc03591おそらく、古代の郷里制のもとでは、この八島村は内保、大路、三田などとともに「湯次郷」に含まれ、その後やってくる荘園制の時代には高畑、木尾、谷口などの集落とともに「田根荘」と呼ばれたものと思われます。その時期に、「波久奴神社」の祭も成立し、明治の市町村制の下、「田根村」と分離して「湯田村」となった後にも、祭の催行だけは田根村グループと一緒に行っています。

また、この図に「田根八幡宮」とあり、その近くに「神輿塚」なるものが描かれています。
「波久奴神社」の祭では、現在は「神輿」を境内で巡行した後、近くの「御旅所」にもどります。古くは、自町まで重い神輿を担いで帰っていたといいます.

八島村は、神社から遠くて、不満に思った村人は、神輿を返すことを拒否したといいます。どういう事情だったのか分かりませんが(おそらく、他に重大な理由があったものと思われます・・・。)そのまま、神輿を地中に埋めてしまったそうです。

そこが塚になっていて、頂上部に大きな石が押えとして置いてあったといいます。それが、この図に描かれている「神輿塚」だというのです。

いささか、あやふやな話ですが、この図を伝来されたご当家の方からお聞きした話です。

写真 現在、企画展で展示中の「右大臣中臣金之連御陵図」、掛け軸に表装されています。
お礼 つたない内容の当ブログ、PV10万ということになりました。皆様のあたたかなご訪問、心より感謝申し上げます。お別れの日が近づいていますが、よろしくお願いします。

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2012年11月 6日 (火)

亀塚古墳の持ち主は誰?

このほど、当館ふるさと歴史探訪で、開催中の企画展に協賛「北国脇往還を歩く」が実施されました。好天に恵まれ、案内人長浜城の太田さんの名調子に聞き惚れながら、内保町から馬上町までを歩きました。

その途中、現在展示中の「亀塚絵図」に描かれている「亀塚」前に立ちました。私的に言えば、中学時代の自転車通学路沿いで毎日眺めていた古墳です。

全長10mほどの、ホントに小ぢんまりした、でも円墳の形をしっかり残し、しっかり整備された見るからに可愛い?古墳です。
Dsc03650
これは、壬申の乱で敗北した近江朝廷側の中臣連金(なかとみのむらじかね)の墳墓と伝わっています。日本書紀に「中臣連金を田根で斬る」とあり、田根荘の名が国史に初めて登場する事件です。

ところで、この古墳は、誰の持ち物かご存知でしょうか

京都に在住のかつて京都植物園の園長もされた公家につながる○○家が所有していると聞いたことがあります。
京都植物園も戦前は、たしか恩賜京都植物園であって皇室につながるものでした。その園長を、公家の方が・・・・・、京都の公家が現在もそうした皇室関連の施設に勤めておられることは当然のことかもしれませんが、興味あることです

ところで、この古墳が○○家の所有になったのも、明治初年全国の天皇陵が整理された際、余ったものを分けてもらわれたと考えるのは、少々うがった考えに過ぎるでしょうか。

写真 「亀塚古墳」(長浜市八島町、珍しく西側から撮ってみました。}

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2012年11月 3日 (土)

悲劇の北国道道標物語

大河ドラマ「江」博覧会の「浅井ふるさとドラマ館」近くに「北国道」「左元三大師誕生所」と、彫られた道標があります。
Dsc03597
江戸方向から、北国脇往還を北進してきた旅人に左方向へ向かえば、元三大師の生まれた「玉泉寺」に行けることを示しています。

これは、「西国三十三ヶ所巡拝」にやって来た人たちにが、岐阜谷汲の三十三番札所華厳寺から三十二番札所竹生島宝巌寺へ行く間に、折角近くまで来ているので当時(御籤等でも)有名だった元三大師にゆかりのある寺へも立ち寄るよう薦める標識だそうです。

西国三十三ヶ所巡拝」や「新西国三十三ヶ所巡拝」に挑戦したことがあります。その際「西国」の意味を深く考えることはなかったのですが、明らかに、関東の人が「西国」と呼んで旅をしたことは明白です。この道標にも建設者名としてでしょう「江戸住人」と彫られています。

道路改良により、この道標はGS西のコンビニあたりから4、50メートル東へ移動していますし、元々の石標は事故で根元から折れ鉄束で固定していた時期がありました。ところが、再び、行方不明となり根元だけが残っています。おそらく、豪雪時に、除雪車によってなぎ倒され、そのまま草野川に雪とともに捨てられたのだろうというのが、役場スズメのもっぱらの噂でした。

その後、不幸なこの道標は、一度作り直されたまでは良いのですが、彫った文字に間違いがあり、再度作り直されたという悲しい過去があります。(一説には、彫り直されたとも。)

写真 当館歴史探訪「北国脇往還を歩く」の一行が、「悲劇の道標」を見学中です。

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