« 2012年9月 | トップページ | 2012年11月 »

2012年10月

2012年10月31日 (水)

新蔵品の特別展示です

この度、長浜城歴史博物館が新しく手にいれた浅井長政関連史料」が、当館で初公開されます。

この文書「浅井長政書状」は、姉川合戦の翌年の5月5日、長政が家臣の阿閉甲斐守に対して発した書状です。内容は、子息五郎右衛門を初め家臣が討ち死にしたことについて慰め、今後織田信長との戦いが収束した段階で、恩賞等を与えるとした感状です。さらに、長政は、子息が討ち死にした関係で、阿閉家の跡目をしっかり立てるべきことを助言しています。

Dsc03629この文書は、浅井長政が姉川合戦について触れた、現存する唯一のものといえます。

特筆すべきことは、長政が姉川合戦のことを「辰鼻表合戦」と呼び、「姉川合戦」と書いてないところです。「姉川合戦」は、後の徳川幕府によって権現様のご威光をたかめる(浅井応援団としては、秀忠夫人の江の親元も美化したかった)ため、かなり誇張されたものとの推論の根拠の一つと考えることも出来ます。

なお、この宛先の阿閉甲斐守が、山本山を守り寝返った阿閉貞征とどういう関係にあったのかは、現段階では分かっていないそうです。

どこかの古物商から手に入ったそうですが、お値段は近く記者発表されるとか・・・、お楽しみに。

写真  今回、初お目見えとなった「浅井長政書状」

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村 旅行ブログ 近畿旅行へ
人気ブログランキングへ

2012年10月28日 (日)

孫が浮気 保育園へ

外孫の保育園の運動会に行きました。

以前から、不思議な名前の保育園だなとは思っていましたが、目の前のテントに「浮気」と、大きな字で堂々と書かれていると、改めて奇妙な感じになりました。

Dsc03489「浮気」の読み方は、「うわき」ではありません。「ふけ」と読みます。

単なる地名なのに、異常に反応するのは、何か心当たりがあるから、やましいところがあるのではないかと疑われそうですが、関係ありませんので、念のため・・・。

「浮気」は、守山市にある町名です。守山駅の東口辺りから展開しています。
そもそも、歴史を紐解くと、鎌倉時代に北条一族が入植し、開拓したことに始まり、彼らは浮気氏を名乗り、浮気城を築いて土着したといいます。

この浮気城は、琵琶湖大橋道路とJR東海道線が交差する地点から東へおよそ300m南沿いにある住吉神社がそれです。

この「浮気氏」は、戦国時代元亀争乱の際、六角氏と組んで織田信長に抗戦しており、戦国ブログのテーマとして決して不似合いなものではないのです。

運動会に、沢山の若い保護者たちが押しかけていましたが、この中に、この保育園名にドッキリしている人が何人いるかなと、不謹慎なことを考えていました。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村 旅行ブログ 近畿旅行へ
人気ブログランキングへ

2012年10月25日 (木)

浅井長政は卑怯者?

当館、郷土学習館のプロローグビデオ室の映像は、浅井三代の成立から姉川の合戦に至る経過が、8分間で分かるよう構成されています。

ナレーターの声に聞き覚えがあると思ったら、元NHKのアナウンサー宮本さんが担当しています。

この映像で強調しているのは、浅井長政が義の人であり、家臣との絆も磐石であったということです。私たちも、子どもの頃から、浅井長政は、信長と戦ったら負けることはわかっていたけど、朝倉氏への恩義を大切にして戦い散った。」と聞き、「ほんで、おまんらも義理や恩を大事にせなあかん!」等と言われて育ってきました。

Dsc00858当館、「群雄割拠の時代~長政時代の大名勢力図」は、この「長政は義の人」「恩を大事にする人」論に、いささかの反発、批判、疑問を呈しているようにも見て取れます。

この図の作成意図は、「元亀争乱の時代」と呼ばれるこの時期の織田信長を取り囲む、いわば「反信長包囲網」の強力さを示しているものと思われます。

あっちでも、こっちでも、敵と戦わなければならなかったこの時期の信長は、まさに危急存亡の危機のさ中にいたと言わざるを得ません。

この図で、信長を取り囲んでいるのは、朝倉義景、浅井長政、比叡山、足利義昭、本願寺、比叡山、三好兄弟、武田信玄と多彩な顔ぶれです。

この状況で、浅井長政が反信長で戦った理由を、朝倉氏への恩義だけで解釈するのは無理があるように思います。「ひょっとしたら、ひょっとせんでも勝てる!」これが、長政の本心と考えることもできます。

でも、そうすると、「義理」「恩義」を大事にと育ってきた私たち浅井の少年たちは何だったのかということになり、この説を高らかに唱えることは差し控えたいと思います。
写真 当館、郷土学習館展示「群雄割拠の時代」(見ればわかります。)

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村 旅行ブログ 近畿旅行へ
人気ブログランキングへ

2012年10月22日 (月)

駅前の鍾秀館ビルが消えた!

鍾秀館(しょうしゅうかん)、正式には旧鍾秀館は、駅前通り駅前平和堂信号の東南にある鉄筋コンクリート造の3階建てビルです。

Dsc03014長く、JA本部事務所として使われていましたが、もともとは下郷共済会によって建設されたものです。そもそも、この下郷共済会は、長浜で多くの会社を経営する実業家下郷伝平氏が設立した財団です。様々な社会貢献を目的にし、その中に社会教育一般があり、文庫、運動場、美術館(博物館)の建設計画もあったといいます。

大正4年にモダンな洋風建築の図書館(現在の滋賀銀行駅前支店、その直前は長浜東映映画館)を、大正6年には現在の長浜幼稚園の所に「長陽園」という体育用具を揃えた運動場を開設し子どもたちに提供したそうです。

そして、大正11年、この博物館「鍾秀館」を建設、長浜の人々や児童にかけがえのない普段接することのできない美術品にふれる場を提供しました。鍾は、鐘でなく集めるの意で、秀でたものを集めた館を意味します。

今から、100年も前に、軟弱な行財政力の国や地方で、こうした企業人の心意気による取り組みのあったことを思うと、感慨深いものがあります。「三方よし」の近江商人の精神の現れと言っていいのかもしれません。
Dsc03013
オープンの挨拶には、いずれは行政の手で、こうした施設が・・・云々と、長浜城歴史博物館の建設を示唆するような部分もあります。

時代の大きなうねりの中で、所有者や利用目的も変わり、今度は、ビルそのものが解体され近くのコンビニの駐車場として、利用されることになったのです。

昨日、車の停められた跡地を目にし、言い知れぬ思いで通り過ぎました。

写真  上 旧鍾秀館全景   下 内部階段部分から3階を見上げる 

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村 旅行ブログ 近畿旅行へ
人気ブログランキングへ

2012年10月19日 (金)

北国脇往還を行く

当館、今年度の「ふるImg036さと歴史探訪」は、「北国脇往還を歩く」です。すでにご案内のとおり、来る、10月27日(土)に実施されます。

これは、企画展「北国脇往還と参勤交代」開催に合わせての企画です。また、関連行事としては、11月2日(金)に歴史講座4回目として、「北国脇往還と参勤交代」と題する講演会も予定されています。講師は、元長浜城歴史博物館長江龍喜之氏です。

Dsc03584さて、この歴史探訪ですが、身近な所で北国脇往還の名残の比較的多く残る地域を歩くことになっています。案内人は、お馴染みの長浜城歴史博物館の太田浩司先生です。

コースは、かつての「江ドラマ館」のあった「あざいおみやげ館」を10時に出発、八島町⇒尊勝寺町⇒山ノ前町⇒伊部町(12時頃、伊部町公会堂で昼食)⇒郡上町⇒丁野町⇒馬上町で、全行程約11キロメートル、14時頃終了の予定です。

参加費は、一般500円、あざい歴史の会会員200円で、申し込みが必要です。

どんな天気になるか分かりませんが、爽やかな秋空の下、太田先生の名調子に耳を傾けながら、秋の湖北路の風情を満喫していただければと思っています。

なお、館内には、一昨日から、伊吹山文化資料館制作の「立体模型北国脇往還」がお目見えしました。湖北の戦国史の舞台が一望できる、なかなか見ごたえのある力作で、こちらの方も是非ご堪能ください。

写真 今回お目見えした立体模型「北国脇往還」全景

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村 旅行ブログ 近畿旅行へ
人気ブログランキングへ

2012年10月16日 (火)

琵琶湖のヨシ、青森のヨシ

只今、当館「七りん館」のよし屋根の葺き替え工事が進行中です。
作業現場等の画像は、詳細にお二人の女性レポーターサラダ記念日さん・お市さん)によって報告されていますので、そちらに譲ります。
Dsc03481
数百万円という膨大な経費ですが、昨年の大河博の収入が予想外にあったためか、捻出していただくことができました。

ただし、葺き替えではなく、さし替え?工事というのでしょうか、古くなったヨシを叩いて表面を剥ぎ落し、その間に新しいヨシを差し込むという作業です。勿論、棟瓦のように、差し替えで済まないところは、全面的にやり変えられます。

当初、葺き替えという言葉が独り歩きしていたものですから、マダラ模様の屋根が出現すると、資料館スズメはピーチクパーチクと、かまびすしいことです。

それはともかく、産○新聞の記者○○さんが、工事関係者から聞いたこととして、次のような話をしてくれました。

滋賀で屋根を葺くのなら、琵琶湖のヨシを使うのが常識だと誰もが思います。ところが、違うというのです。青森県などのヨシを主として使うといいます。

その理由は、写真を見てわかるように、琵琶湖のヨシは見るからに太く、青森県のものは、さすが寒い厳しい環境で育つだけあって、細いのです
Dsc03486
ぬくぬく育った琵琶湖のヨシだけでは十分でなく、ぎっしり詰まる青森産を使うとのことでした。

スズメの中には、太い琵琶湖のヨシの方が肉厚で強いとか、琵琶湖のヨシは生産する人がいないからだとか、講師先生も○○家の修復には琵琶湖のヨシだけで作業が行われた・・・などという話もあり、真相は闇の中です。

ただ、当記者さんに、「流石、新聞記者さん、足で稼ぎますね。」と言いますと、「流石、うまい!」と返されましたが、頭の固いこちらは意味がわかりませんでした。

「足とアシ」を懸けたものと思っていただいたことがわかったのは、一呼吸おいた後でした。

写真 上 「七りん館」ヨシ屋根修復事業風景   下 上の太い方が「琵琶湖のヨシ」、下の細いものが「青森産のヨシ」

2012年10月13日 (土)

小谷山炎上

戦国期、小谷落城の際に火災は発生していません。

長政に焼き払う意思がなかったことや、秀吉もこの城を拝領することが予想され、無駄な放火を避けたのかもしれません。とにかく、発掘調査では灰の欠片も見つかっていません。
256
NHK大河には、小谷落城シーンが14回放映されたそうですが、一度として火災の発生しなかった回はありません
今回も、監修の小和田さんも太田さんも声を揃えて文句を言ったそうですが、しっかり燃えていました。お二人は、痩せ我慢で、あれは本丸が燃えたのでなく、櫓の一つが焼けたんです、なんて言っています。

当館の展示も、猛烈に炎上していましたので、煙だけに修正してもらったそうです。いずれにしろ、NHKは火を付けるのが好きみたいですと説明することにしています。

でも、私は小谷山が燃えるのを見たのです。小谷城でなく小谷山ですから、念のため・・・。
私が、まだ母の背に負われている頃でした。サイレンが鳴り仕切る中、我が家から、100mも行かない場所からその
火事の様子が見て取れました。
258
ただ、サイレンの音や異常な人々の動きにでしょうか、私はワーーワーー泣いていた記憶しかありません。長く焼け跡が三角形にその名残を残していました。後、高校時代に遠足で登った時には、背の低い木々が育っていたことを思い出します。

今思うと、その場所は、本丸を東へ下がった麓から赤尾屋敷にかけての場所であったようです。

写真 上 小谷山を東から望む。  下 火災の発生した場所を示す。



にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村 旅行ブログ 近畿旅行へ
人気ブログランキングへ

2012年10月10日 (水)

消防車が我が家へ飛び込んだ!

昭和40年のある日曜日のことです。

自宅におりますと、ゆっくりした、ベリべリといった音がします。どうせ、近所のやんちゃ連中がボールでも屋根へ上げて取りに来ているのかと思っていたんですが、どうも様子がおかしいのです。

Photo自分の部屋を出て、台所まで行ったら大びっくり、なんと庭(改築前の我が家、ご多分に漏れず入り口が広い土間になっていました。)一杯に消防車が突っ込んでいたのです。おまけに、壁が壊れ土ホコリととともに水道管が破裂して水が吹き出していました。

消防車も、家の中へ入ってくると、唖然とするくらいの大きさです。やがて、外から「◇◇」「△△」と、運転席の子どもの名前を呼びながら、お父さんと思しき方が飛び込んでこられました。

Photo_2 当時の消防車、エンジンを掛ける際、車の前でハンドルを回す仕組みになっていました。おそらく、クラッチがローに入ったままエンジンがかかり前進したようです。

消防車庫から県道を越え我が家へ飛び込んだんです。今まで、黙して来ましたが、当事者はもうおられず時効ということで、写真も公開します。

私は、授業中、各クラスで、この珍ニュースを披露して回ったので、私の教科を忘れても、消防車事件だけは覚えていてくれる卒業生に沢山出会いました。

写真 上 突入した消防車(県道側)   下 我が家の玄関から内部を

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村 旅行ブログ 近畿旅行へ
人気ブログランキングへ

2012年10月 7日 (日)

砂山のこと

砂山」の唄で知られるような、自然に作られたものでない、「人工的な砂山」のお話です。

先日紹介しました大洞村を紹介する写真、その手前に写っていた藪、田川の堤防のそこだけこんもり盛り上がっています。

Dsc03456間違っているかもしれませんが、思い出すことがあります。

この田川の上流が、我が「田根荘」では、荒川・田根川と呼ばれています。その堤防道が、中学校への通学路でした。

その荒川が、折れ曲がった地点に、小高い山というか岡がありました。高さは10mはあったと思いますが、アケビやマメヅル(葛)が自生し、とても人間が作ったとは思えない大きさでした。

麓は、道普請の補修用土砂として、村人が削り取るのか、崖になっていて登りつける状況ではありませんでした。中学以来、どうして出来たのか疑問に思ってきましたが明快な答えを示してくれる人はいませんでした。

随分してからです。村人が荒川の川底に溜まった土砂をさらえ、運び、営々として積み上げて来たものだとの話を聞くことが出来たのは・・・・・。
Dsc03540
第2室戸台風だったか、堤防がズタズタになり大改修された際、その「砂山」も撤去され、そこにそんなものがあったことを知る人は、ほんのひと握となってしまいました。

あのこんもりした藪を、「砂山」と同じように、浚渫した土砂を積んだ所との推理、果たしてどんなものでしょうかね

写真 上 大洞村付近の田川堤防にある盛り上がった藪  下 田根荘荒川の「幻の砂山」のあった場所

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村 旅行ブログ 近畿旅行へ
人気ブログランキングへ

2012年10月 4日 (木)

見つかりました!

今回、公開された「虎御前山絵図」に描かれている現在はない東麓の「大洞村」について、述べて来ました。

二人のH先生に尋ねたところ、知らないとのお答えでした。3人目の郷土史にも明るいH先生にもお尋ねしましたが、この方も・・・・・でした。そして、地元の方を紹介いただきました。
Dsc03449その後、多くの方々から、様々な村の消え方について、想像していただき、ヒントをいただきました。崖崩れ、洪水、流行病などなどです。
なんか、ますます、興味が湧き、一日も早い解決を・・・と、願って来ました。

ご紹介いただいた方、お若いですが、合併前地域の要職にあった方で、流石よく聞き伝えて来ておられました。

確かに、いつの頃かまで、現在の虎御前山の登り口の町「中野」に対して「東中野」という村があったそうです。
その村が、古くは「大洞村」と、呼ばれていたのだろうとのことでした。

旧虎姫町の境界線は、旧湖北町別所の極く近くまで接近しており、その境界近くに「大洞村」はあったのです。

Dsc03456しかも、虎御前山の山腹、谷間に存在したようで、今もかつての氏神さんの跡地でしょうか、祠があるといいます。この地所は、中野町の所有地だそうです。

離村の理由は、定かではありませんが、山あいの集落であり、虎姫町からは遠く、道路も整備されていず、行政面、経済面から中野町へ転居されたと考えるべきではないかと思います。

現在も、中野町の○○姓や○○姓の人は、そちらからの移住者であると伝わっているそうです。

写真  上 虎御前山(中野山)全景  下 東山麓、「大洞村」があったと思われる谷あい、山裾(中央部分)

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村 旅行ブログ 近畿旅行へ
人気ブログランキングへ

2012年10月 1日 (月)

この村はどこへ消えた?

今回の新展示品に、彦根藩家臣田中与左衛門家に伝来した六枚折の腰屏風(この屏風にこの表現が当たるのか分かりません。腰の高さよりは高いですが低めの屏風です。)があります。

これには、7枚の絵地図、6枚の短冊、2枚の田中某の書いた文書が、貼り付けてあります。中央2面の最も目立つ場所に、この屏風中最大の絵図「虎御前山絵図」が貼られています。

この「虎御前山絵図」は、これら15点の中で最も絵図の質が高く、おそらくはこの絵図の散逸を恐れ、披露、保存することを目的に作られたかと思いたくなるような屏風です。
Dsc03270
この中に、田中与左衛門自身が描いた極めて雑な「姉川合戦図」もあります。文書も彼のもののようで、わりに、目立ちたがりの与左衛門さんであったのかもしれません。

さて、メインの「虎御前山絵図」をつぶさに見ると、信長、家康、秀吉などの砦が明示されている以外に、不思議なものが描かれています。

それは、虎御前山の東山麓、別所村の南に、比較的大きな集落「大洞村」があることです。今、この村はどこにもありません。戦国期、江戸時代にあったものが、忽然と消える・・・?絵図では、別所村より戸数が多く描かれています。一体、何があったのでしょうか?

古代の湖岸では、大地震で湖底に沈んだ村のことがいわれますが、まさか、こんな山麓で???
H先生お二人に尋ねましたが、今のところ・・・・・・です。どなたか、教えてください!

写真 六枚折「貼り交ぜ屏風」の中央、「虎御前山絵図」の部分

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村 旅行ブログ 近畿旅行へ
人気ブログランキングへ

« 2012年9月 | トップページ | 2012年11月 »