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2012年9月

2012年9月28日 (金)

たんのしょうのこと

今回の展示替えで、新しくお目見えした資料の1つに、「姉川合戦場図」という姉川合戦を描いた絵図があります。

この絵図は、琵琶湖や姉川などの水系を薄茶色で表現し、様々な街道が朱色で明瞭に描かれています。また、合戦の様子も詳細になっていたりして、一見すると過去に紹介した蓬左文庫の「姉川御合戦絵図」や当館で以前から展示中の「姉川合戦絵図」とは全く別物のようにも見えます。

Dsc03276_2ところが、姉川合戦から79年後の慶安元年に描かれているとか、郷人がハシゴ山で見物していたという記述があったりして、同一の絵図が元になっていることがわかります。

おそらく、蓬左文庫のものが基本になり、多くの写本が作られたものと思われます。

ただし、今回の「姉川合戦古絵図」には、私たち田根地区の者にとっては前の二図と違った興味ある発見がありました。

それは、我が地区あたりを流れ出す川に「谷ノ庄川」と書かれていたことです。私たちの地区が「田根荘」と書いて「たんのしょう」と呼ばれてきたことは既に触れていますが、その証拠を歴史上確認することは出来ていませんでした。

「谷ノ庄」を、「たねのしょう」と読むのは無理があり、「たにのしょう」即ち「たんのしょう」と読むほうが自然だと、妙に納得した次第です。

この絵図にのみ、この表現があるということは、これが我がふるさとに近い所で描かれたものと言えるのではないかと考えています。

写真 展示中の「姉川合戦場図」、9月13日の写真と比較していただくと、類似点や違いがわかると思います。

2012年9月25日 (火)

秀吉拝領の甲冑

我が家の親戚○○家の蔵に、秀吉拝領の甲冑があると噂されてきました。見せてもらった人、有無を確認した人が、いるのかいないのか私は知りません

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もともと、この甲冑は称名寺(長浜市尊勝寺町・湖北十ヶ寺の一つ)に伝わったものだといいます。

賤ケ岳合戦前夜、軍を進めてきた秀吉が、この寺に逗留します。その際、作戦会議で、「ここより北に馬上(まけ)という村がある。OR、この先に北馬上(きたまけ)という村がある。」という説明を、称名寺の住職がしたそうです。

それを聞いた秀吉が、「北の負け」に通ずると大いに喜び、称名寺に甲冑を与えたというのです。

その後、称名寺が経済的に苦しみ、○○家に多額の借金をし、その返済ができず、そのカタに甲冑が移ったといいます。

甲冑の存在からして、危ういものですし、これらの話の信ぴょう性はどの程度あるのか分かりませんが、称名寺の借金のくだりを、同級生の專ちゃんから今回の小学校の同窓会旅行で聞いたもんですから、ご紹介いたしました。

写真 ○○家のものではありません。ネットから借用しました。秀吉から梶原家が賜った具足です。

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2012年9月22日 (土)

平清盛関連史跡を訪ねて3

長田神社 重要文化財の南北朝時代の修理銘がある神輿と鎌倉時代に寄進された石灯篭があります。
那須与一の墓 この墓所は、地域の人が交代で鍵の開け閉めをしておられるそうで、湖北の観音信仰に似た形態があることに興味を持ちました。
Dsc03249 須磨寺 六甲山の麓の高台にあり、駐車場からエレベーターで降りるという近代的な寺です。青葉の笛で有名ですが、江戸時代から「笛見料」を徴収し、収入を得ていたという、恐ろしく財テクに長けた寺です。
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一弦琴 一枚の板に一本の弦を張っただけの琴で、物寂しい優雅な音色が楽しめます。
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敦盛塚 寿永三年の源平合戦に当時十六歳の紅顔の美少年敦盛が、坂東武者熊谷直実に首を打たれた場所に建てられたという大きな五輪塔です。
 階段あり、坂道ありのコースではありましたが、全員揃って一万歩を超える全行程を無事に踏破できたことは嬉しいことでした。

写真  上須磨寺庭園の敦盛像  中一弦琴演奏風景  下巨大な五輪石敦盛塚
 




















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2012年9月19日 (水)

平清盛関連史跡を訪ねて2

「平清盛歴史資料館」にバスを預け、歩いての史跡探訪です。

何しろ、見学地9ヶ所に一弦琴の鑑賞という超濃密スケジュールで、参加者にとってはどこの観光業者にも追随のできない割安感大きな満足を得ていただきました。残暑が厳しくなった中、高齢者も負けじと歩きます。

Dsc03202_4潮の香りのする堀沿いに築島寺があります。清盛が福原京を造るにあたって、埋め立て工事をします。ところが、何度やっても成功できず、香川の領主の子、十七歳になる松王丸が自ら人柱になることを申し出て、小舟に乗せられ多くの石とともに沈められたといいます。その菩提を弔うため建立した寺で、近江にも関わりのある清盛の寵妾祇王妓女の墓もあります。寵妾という言葉に時代を感じました。
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能福寺には兵庫大仏という爽やかな表情の露座の大仏があります。例の3つ目は無茶苦茶理論でしょうが、日本3大大仏とも呼ばれている(自称している)ようです。古いものかと思ったら、明治中頃、キリスト教の不況の広まりに危機感を持った仏教徒が建立したといいます。戦争で供出され、平成になって再建されました。滋賀の善水寺から移った重文の十一面観世音立像もあるといいますが、移った理由には何かきな臭い匂いがします。


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清盛塚、清盛埋骨の地と言われ、鎌倉期の銘のある巨大な十三重の石塔があります。清盛没後95年目に建立され、高さ8.5mの巨大なもので、清盛関連の石塔といって間違いないはずです。ただ、道路拡幅工事で10m移転した際、墳墓ではないことが確認されています。

琵琶塚、前方後円墳をその形から琵琶塚と呼んでいたのが、平家物語の琵琶の名主平経正にかこつけて経正塚とも言うと、江戸初期の文献にあるといいます。明治末に大きな石碑が建てられています。
長田神社、延喜式神名帳に記載されている由緒正しい神社です。多くの宝物が有り、中でも重文の「黒漆金銅装神輿」と弘安の役頃の銘のある「石灯籠」が有名です。たDsc03229_2 だ、この神社の本殿真裏に樟を神木とするお社があり、赤えい伝説にかかる痔の治癒を願う絵馬の奉納所がありました。森岡さんは赤えい伝説は知っていたけど、この場所は
知らなかったと感慨深げでした。

あーー、もう1回に分けないと・・・。

写真 上より1築島寺松王丸祇王妓女墓  上より2能福寺兵庫大仏  上より3清盛塚奥に琵琶塚  上より4長田神社赤えい伝説に絡む社  

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2012年9月16日 (日)

平清盛関連史跡を訪ねて1

恒例のあざい歴史の会主催の臨地見学会が、今年度はNHK大河ドラマの舞台の一つである神戸方面で実施されました。

ある目的のため、原稿を書かされましたので、それをアレンジしてお茶を濁します。

講師は、長浜城歴史博物館の副参事ヒゲの殿下こと森岡榮一氏でした。氏は高校までの多感な時期をこの地で過ごされ、神戸の町にも造詣が深く、この地への思いも厚い、打って付けの案内人でした。

途中、通われた小学校や中学校までご案内いただく、念の入れようでした。

恒例になっていて、皆が楽しみに思っている、車中での見学先に関する事前講義が行われます。ユニークな語り口で定評のある氏ですが、日ごろ聞けない専門的な内容を面白く解説をいただき、参加者一同見学先への思いをいやが上にも高めた次第です。

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中でも、当時の馬は、ポニー程度の短足で、去勢技術がわが国ではなく野性的で強く、乗りこなすのも武将の大事な資質であったとか、一の谷の逆落としは、六甲山系の花崗岩の崩れた斜面を滑り降りたと考えるべきでないか等との興味あるお話の連続で、あっと言う間の福原京到着でした。

先ず、昨年を彷彿させるような大河ドラマ関連の「平清盛歴史館」に着きました。浅井の駐車場の何倍もある大駐車場に、停っている車は乗用車二台と私たちのバスだけです。知事まで文句をいうという不人気がいわれる今年の大河、こんな惨憺たる姿に唖然とした次第です。

劇ドラ隊のお兄さんたちも手持ち無沙汰で、若いファンの女の子とだべっていました。

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2012年9月13日 (木)

「姉川御合戦図」のこと

名古屋に徳川家にかかる古文書類を収めた「蓬左(ほうさ)文庫」があります。ちなみに、この蓬左は、名古屋を指す言葉で熱田神宮の左という意味だそうです。

たまたま、ここで7月25日から9月30日まで、「戦国の合戦」と銘打った企画展が開催されています。

その展示品の中に、「姉川合戦御絵図」があります。これが、どうやら当館で常設展示している「姉川合戦絵図」と同一というより、その原図と言えるように思います。ただ、両者を見比べますと、微妙な違いがあります。
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原図には、北国脇往還や北国街道、その他の街道が描き込まれていますが、当館のものには、街道は一切省かれています。

街道が描かれている関係か、野村の少し東外れ、八島の西南、郡上などに、道を挟んで黒丸が2つずつ描かれています。おそらく、一里塚を示しているのではないかと思います。

また、この絵図の右端に、原図では「姉川御合戦之時分、郷人ともはしご山へ北(にげ)上り見物故、相残者共物語仕候モ慥(たし)かに無之候」とありますが、当館のものでは「姉川合戦ノ時、郷人共ハシゴ山ヘ登リ見物仕、残ル者共ノ物語分明々・・・云々」と、なっています。「姉川御合戦の時分」が、「姉川合戦ノ時」に、ひらかなが、かたかなに、など少々わかりやすく書き改められているように思われます。

各場所での戦闘の記録に死者の数が、当館のものはどの場所も「大勢討死」とありますが、原図の方ははっきり読み取れません。

いずれにしても、原図を書き写した物がかなり出回っていて、そのうちの1枚が「古物屋さん」を通じて、長浜城歴史博物館にやって来たといえます。

写真 当館で展示中の「姉川合戦絵図」

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2012年9月10日 (月)

信長は「神の使い」「天の使い」?

ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの著書における日本の戦国時代については、度々触れてきました。

元亀争乱の頃は、信長にとっては危急存亡の大変な時期でした。いうまでもなく、「反信長包囲網」が成立し、将軍義昭が全国に反信長の指示を出したり、本願寺があちこちで一揆を起こしたり、比叡山、朝倉氏、浅井氏、三好氏の反抗、背後からは、武田信玄の侵攻と、四方八方に敵を抱えていました。
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そうした中で、信長は比叡山焼き討ちを行い、僧のみならず女子供まで皆殺しにし、一向一揆にも長浜のさいかち浜での虐殺、大吉寺攻撃などを始め、かなりひどい仕打ちをします

わが国では、信長のことを神仏を恐れぬ、極悪非道の残忍な人物と評します。

しかし、ルイス・フロイスは、この信長を「天の使い、神の使い」と表現しています。
立場変われば・・・・・で、邪教である仏教徒を懲らしめる信長を、イエス様のための良き行為者と評価しているのです。

信長さんも、まさかローマ法王さんが喜んでくれるとは思ってはいなかったことでしょう。

写真 当館に掲出されている「元亀争乱勢力図」

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2012年9月 7日 (金)

浅井長政着用のヨロイ?

今回の「垣見家関係資料」の展示中、一きわ目を引くものが、「黒漆塗紺色威胴丸(くろうろしぬりこんいろおどしどうまる)」です。
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どこにも傷みのない立派なものです。それもそのはず、滋賀県指定文化財であり、公費で修復されているそうでう。ただ、兜(かぶと)も籠手(こて)も、正式の一揃えではないとのことです。

家臣の今井家が浅井長政から、具足を拝領したとの複数の史料があり、落城に際し感状をもらう程の垣見家も当然のこと拝領していると考えられます。

「みーな」では長浜城の森岡さんが、この鎧の細工の精細さなどグレードの高さから、一土豪の持ち物とは考えにくく、長政からの拝領の品とも考えられると述べておられます。

となると、この鎧、浅井長政が着用していたものと考えることもできそうです。

関係の方が、コメしていただきました。内緒ですが、ご子息がこの鎧で遊んでいたと、語っておられたとか・・・・・・・・。ハイソサイエティの方々の遊び道具は、やっぱり違います!

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2012年9月 4日 (火)

戦場の音が聞こえる!

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2012年9月 1日 (土)

覚悟の出征

終戦記念展に長浜市郷野町の故田中保雄さんが出征に当たって書かれた遺書が展示されています。

昭和18年1月3日、田中さんは、20歳で戦地へ赴かれます。その際、自らの決意や家族への思いをしたため、お仏壇の引き出しに残して家を出てゆかれます。このことは、お姉さんだけに告げられていました。

遺書は、父母様、兄殿、姉殿、妹殿と、6人に当てて、墨書で細々と思いの丈を書き込んでおかれます。
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父母には、国家のために奉仕できる日が来たこと、丈夫な体に育ててもらったことに対する感謝を述べ、父母に恥をかかすような死に方はしません、出征後は最早家に無き者と思ってくれるようにと決意の程を記しています。
には、父母の孝養は自分の分もと頼み、5代目田中家を受け継ぎご先祖様を守ってくれるよう依頼しています。
には、どうか良き縁があれば、早々に嫁いで良き日本婦人として仕えてください。
には、妹二人共仲良くして早く大きくなって父母に孝行してください。などと、記しています。

村をあげての出征行列で華やかに送った後、これらの遺書を見られた家族は、涙、涙であったと伝えられています。

田中さんは、翌19年11月6日、レイテで戦死されますが、戦死公報が届いたのは3年後の昭和22年9月30日だったそうです。その間、お母さんは毎日、靴音がしたり、風で物音がすると「保雄が帰ってきたのでは!」と、耳をすまされていたといいます。

写真 故田中保雄さんが出征に当たって書かれた遺書

終戦記念展は、9月2日迄です。お早めにお越しください。
お礼 アクセスカウンター90000を超えました。私ごとき内容で、信じられないような数です。ご来訪の皆様に心からお礼を申し上げます。有難うございました。

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