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2012年8月

2012年8月29日 (水)

これも間違い

当ブログへのお客様が、「垣見助左衛門屋敷絵図」の写真に着目されました。この絵図には、かなり多数の付箋が貼られています。

当初、アップするときは、あまり気にしていませんでした。と言うより、その付箋、ガラスケース越しですし、折れ曲がっていたり、丸まっていたりしてよく見えません。それは言い訳で、ホントのところはしっかり読み下す能力がないというのが本音です。
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付箋の文字は細く美しく、朱の墨?で書かれています。

文化四年(1807)に描かれた絵図に、後代、付箋で書き足したものと思われます。適当に付箋の文字を読んで、改造したり、災害が起こったり、詳細に記録を残すために貼られたものと、考えたのです。

しかし、「大凶」と書かれた部分が有り、疑問に思っていました。そこへ会議で太田さんがやって来たので、尋ねますと、私も充分見てないんですよ、と言いつつも、即、解答を頂きました。

どうやら家相を見た人の見立てだといいます。そう思ってみると、「勝手六畳吉」、「竈二ッ三ッ四ッ五ッ八ッ吉」、「此間八帖半九帖、九帖は吉」、「此道に井戸有り吉」、「泉水築山大凶」などと、あります。

今も、「泉水築山」はそのままだといい、それだと「大凶」が気がかりですが日付らしきものもあり、期間を限定した見立てだったんだと思います。

写真 屋敷図の南側を流れていた川、地図では、小道を挟んで二筋流れていましたが、今は一本になっています。

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2012年8月26日 (日)

謹んでお詫びと訂正を・・・

現在展示中の長浜市指定文化財「垣見助左衛門屋敷絵図」に関連して、勝手な推測での記事を書いて申し訳なく思っています。

T君のことも引っ張り出して、絵図上から慎重に結論を出したつもりでしたが、根本的に間違っていました

「絵図の右上は「(宮川)陣屋」に接していることになっており、陣屋跡が現在の「日枝神社」境内に比定されることから、その場所を特定することができます。」と、書きました。しかし、「陣屋跡」と「日枝神社」は別で、「陣屋跡」は「日枝神社」の西に道を挟んで、あったそうで、現在は住宅地になっています。
「垣見助左衛門屋敷絵図」にある長屋門は、形こそ変わりましたが、その位置とおぼしき場所に、門が有り立派なお屋敷が建てられています。
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昨日、資料館で屋敷図などを熱心に見入っておられる品の良いご夫婦がおられました。声をかけさせていただきますと、「今は嫁いでいますが、垣見の者です。」とのことでした。

たまたま出ていた日にお出会いするなんて、間違った記事を書いたことを叱正するために、垣見助左衛門が子孫を差し向けられたようにさえ思えます。垣見氏、恐ろしです。

様々なお話を聞かせていただきました。今も、あの大きな酒蔵は健在であること、西側の幅広い薮は残っていること、絵図になかった土蔵が2ヶ所もあったこと、かつては資料の公開は避けてこられたこと、現在すべての資料は長浜城に寄託されていること、などです。

屋敷の中にあるしっかりしたフェンスで囲われた「ゲートボール場」のことについて伺うと、「あれは祖父が年老いても畑仕事に精を出しすぎで、心配された父がテニスコートを作ったんです。」とのことでした。それを、ゲートボール場に使っておられるようです。

長浜にテニスコートのあるお宅があったということを初めて知りました。垣見氏恐るべしです

もう1点、お詫びしなければないないことがあるんですが、長くなりましたので・・・。

君が代さんの目に止まっていなかったようで、一安心です。

写真 宮川陣屋跡を示す石碑(この写真は拡大できません。)

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2012年8月23日 (木)

転合庵よ、どこへ行く!

昨年12月、「小室藩最後の日の記録」、「江州小室陣屋指図」、「彦根のどこかにあるはず」などと、書いてきました小堀藩小室陣屋の絵図には、茶室が2つ描かれています。

その一つが、「転合庵」です。転合庵は、小堀遠州の号でもあったようで、その名を茶室につけたもので、いくつか知られています。

ネットの筆頭にあるのは、東京上野国立博物館の裏庭にある「転合庵」です。これは、京都伏見の六地蔵から大原寂光寺を経て1963年に移築されたものとあります。

Img_395429_8640632_8とにもかくにも、小室陣屋にあった「転合庵」は、大正13年小堀家の手を離れ、その後、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、流転の旅を続け、現在は市内に解体されて保管されているといいます。

今回、この茶室を長浜の地に再建しようという機運が高まり、茶室「転合庵」里帰り実行準備委員会が組織されました。市長も招いての事業進発式?記念茶会が催されました。

ところで、気になるのは、一体どこへ再建するのかということです。

どうやら、五先賢の館が関わっているようですが、小室陣屋(城)内ではなさそうです。案内をもらっても、もう一つ微妙で様子を伺っている次第です。

写真 小室陣屋(城)内の、転合庵のあったと思われる場所。私のブログ上の大親友yawaragiさんの記事から、勝手に拝借しました。自宅から近いので撮りに行ったらいいんですが・・・。

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2012年8月20日 (月)

家臣垣見氏の屋敷図から

今回の展示替えで、文化四年(1807)に描かれた長浜市指定文化財「垣見助左衛門屋敷絵図」がお目見えいたしました。

「垣見助左衛門」は、浅井長政から小谷落城を目前にして、感状をもらった人物と同姓同名であり、おそらく、代々その名を継承して来たもので、垣見家は浅井家滅亡後、この時点で234年続いて来ていることになります。
のみならず、現在も土地を相続し生業を立てられており、実に今年まで439年にわたり、連綿として「垣見家」は続いてきているのです。

その屋敷図は、なかなか見ごたえのあるものです。
Dsc02889_6 地図には、宮川邑とあり、現在の宮司町であり、地図の右上は「(宮川)陣屋」に接していることになっており、陣屋跡が現在の「日枝神社」境内に比定されることから、その場所を特定することができます。

宮司町の総持寺の信号の1つ東の信号を南へ入ったところに、日枝神社がありますが、その道路をはさんだ西側一帯と考えられます。現に垣見医院があり、広い土地を所有しておられます。

この地図の特筆すべきことは、母屋、長屋門、酒蔵などの建築物の詳細な間取り図、泉水などを中心としたかなり立派な庭園、畑地などの土地利用の様子などが詳細に描かれていることです。

右上、陣屋に接する所には、陣屋隠居屋敷貸地とあり、公儀へ土地を貸し付けていたことも読み取れます。

長屋門の前に、若干の広場が有ること、川の水を引き入れて利用する井戸があること、周囲には4間半幅の薮が巡らしてあったことなどが描かれています。

現在展示中の、黒漆塗紺糸威胴丸(ヨロイ)、頭形兜(カブト)、籠手(コテ)などをはじめとする膨大な宝物は、どこにしまってあったのか、土蔵などもなく、不明です。

当館職員T君が地図や現地を確認してくれましたが、知らなかったのは私たちだけだったのかもしれません。

絵図 長浜市指定文化財「垣見助左衛門屋敷絵図」

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2012年8月17日 (金)

天皇の間近で

8月15日、東京武道館での全国戦没者追悼式に参列しました。

滋賀県からは、56名の参加、全国から約6,000名の遺族が参列しました。その他、都道府県関係者、国会議員等1,000名、合わせて7,000名という大規模な式典です。
例年、NHKで長時間生中継されることで知られていますが、天皇、皇后両陛下を始め、皇室関係者、野田内閣総理大臣、衆参両院議長、最高裁判所長官、その他閣僚、国会議員等多彩な顔ぶれです。
Dsc03071_5 国歌斉唱、黙祷、内閣総理大臣、衆参議長、最高裁判所長官の挨拶、天皇のおことばと、厳粛裡に進行してゆきます。いささか、気になったのは、献花です。野田総理、自民党谷垣総裁、公明党山口代表ぐらいはいいとして、みんなの党、たちあがれ日本、国民新党、新党改革、新党日本、新党大地、国民の生活が第一など、何人いるのか分からないような政党代表者も、真面目な顔をして献花されます。

さすが、そんな無駄な時間には、天皇皇后はご退出になっておられましたが・・・。

アイドルグループの武道館コンサートでもお馴染みの館内は、3階席までぎっしり詰まっていますが、今年の滋賀県席は県庁関係者が興奮するくらいの近来にない絶好の位置にありました。右翼、前から4列目くらい、天皇皇后席の正面でした。国会議員席より上にありました。

天皇、皇后とも、老けられたなあとは思いましたが、上品な身のこなしはさすがだなぁ・・・と、拝察した次第です。

式典終了後、ステージ正面を飾っていた無数の黄菊白菊は、厚生労働省の若手職員の手で、フロアー参列者に配られました。今、我が家で香りを放っていてくれます。
これも、戦った国、戦国のものがたり?
Img002_6 写真 上 今年度の全高戦没者追悼式での天皇皇后   下 昭和55年びわこ国体水球会場長浜市民プールでの美智子さま、こんな近くでこっそり写真の撮れる役割でした。

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2012年8月14日 (火)

長政の垣見氏への感状

今年度、新設された映像室のプロローグビデオで紹介されているものの中に、浅井長政が発した「感状」があります。

籠城の最後の最後まで、家臣として誠実に仲勲に励んだことに対する、感謝状ともいえるものです。浅井長政は、小谷落城を前に何通かの感状を主だった家臣に手渡しています。最後の「感状」として有名なものに、8月29日の日付のある片桐直貞へのものがあります。

今回の展示替えでは、「垣見助左衛門」に対する「感状」が展示されています。長政自決の12日前の日付になっています。

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ビデオでは、深く結びあった主従の絆を示すもので、その後、当家に大事に伝えられて来ているのは・・・という流れになっていますが、普通には、最後まで仕えたことへの感謝とともに、それだけの立派な人物なので是非、家臣として雇ってやって欲しいという新しい主君への就職依頼状であったと考えられています。

「垣見家」が、様々な時代をくぐり抜け連綿と現代にも、その勢いを持続しておられるのも、こうした「感状」の、或いは「感状」を拝領できる立派なDNAを有しておられたからだとはいえないでしょうか。

写真 垣見助左衛門宛の浅井長政感状

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2012年8月11日 (土)

アメリカの子が田根荘に

マサチューセッツが、アメリカのどこにあるか、はっきり知りませんでしたが、何となく読みにくい地名だなあと思い続けてきました。

まさか、そこの学生たちが、毎年我が家の近くを徘徊する(失礼)ような時代がくるとは思っても見ませんでした。

5年前から、田根荘に、慶応大、同志社大とマサチューセッツ工科大学の学生たちが、夏、沢山、ワークショップのためにやって来ます。

早朝、一人でジョギングしている子、数人でサイクリングをしている子など、突然の外人さんの登場に、地元民もあんぐりといったところでしょうか。

これまでに、地元民との交流研究、空き民家発掘と活用、デイサービスセンターの設計、小学生交流など、様々な活動を慶大小林研究室を中心に進めてこられました。
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盛大なウエルカムパーティや1日限定ビアガーデン「田根・坐・ガーデン」の開設、被災地福島からの移住者を田根の空き民家へ受け入れるプロジェクトなどを発足させてこられました。

田根の将来について、毎年様々な(奇想天外な)発想、アイディアの提供を受け、地元も田根地域づくり協議会を中心に、ホムスティの受け入れ、自転車の提供など、何かと気を遣っているところです。

写真 慶応大学建築科生が、設計したデイサービスセンター、いろいろ地域の歴史や土地柄について尋ねに来て設計をしてくれました。

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2012年8月 8日 (水)

「御逮夜(年忌法要)記念巻物」とは?

「御逮夜(年忌法要)記念巻物」と銘打たれた巻物が展示されています。

旧浅井町が誕生した後、かなり長期にわたって浅井町長を務められた方に樋口恒男さがおられます。この方が、若くして出征された際、奥さんがご主人のために、お逮夜に参詣された方々に励ましの、慰問のメッセージを書いてもらわれ、軍港舞鶴に留まっておられたご主人に送られたものです。

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巻物の冒頭には、奥様があまりにも美しい細筆書きで、法要に際して皆さんに書いてもらったことを報告しておられます。中でも、「ご主人様のために・・・・・」と、へりくだった書き方をしてあることが印象的でした。

法事には、老若男女様々な方々が参詣され、個性豊かに文章を書き、絵を描いておかれます。中には、文字が書けずに絵だけを描いた子、たどたどしいひらがなだけの子、格調の高い名文、俳句、激励文と、様々です。

何よりも感心することは、この全長5メートルに及ぶ紙に、何名の人の名があるでしょうか、そのどの人も、誰一人、ペン、鉛筆はなく墨と筆でしっかりとした文字を書いておられるということです

たまたま、現在「秀忠」書状と東福門院(江の娘和子・御水尾天皇中宮)」書状が展示されていて、その美しさに圧倒されていますが、その流れは昭和のこの時代まで連綿と引き継がれて来ていたといってもよいのかもしれません。

今、こんな依頼があっても、しり込みして誰一人筆を取る人はいないはずです。

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2012年8月 5日 (日)

餅は餅屋、ヨロイはヨロイ屋

以前、清洲城下のヨロイ屋さんなる方が、来館されました。

当館には、木之本町の伊藤さんのご先祖さんが、小谷城で拾われたという「念持仏」が展示されています。
2体あって、一方は「十一面観音像」、一方は「童子像」といわれています。それぞれに、糸を通す穴が開いています。
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おそらく、ヨロイか着物の内側に縫い付け、武運長久を念じたものであろうと、資料解説にも書かれています。

ところが、そのヨロイ屋さん、このような小像は業界では「カブトぼとけ」と呼んでいるというお話でした。カブトの内側、額の上に当たる部分に、糸で縫い付けてあるとのことです。

この方は、当館名物?の腹当てに鋲で留めてある鉄板を、「カルタがね」、肩の部分に使っている細長い鉄板を「イカダがね」というといいます。たしかに、カルタの形ですし、イカダの形です。上手いこと、ネーミングしておられるなあと、感心するとともに、「かぶとぼとけ」も、そのものズバリの納得のいく呼び方です。

ここでお話は終わりです。ところが、この方、あの腹当てという形のヨロイを見たことがないと仰有いました。

これは、一体どういうことなんでしょうか???

写真 小谷城出土の念持仏

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2012年8月 2日 (木)

終戦記念展、第十回に!

当館が、終戦の日をはさんで「終戦記念展」を開催するようになってから、10年が経ちました。

Img263a_2今でこそ、あちこちで開催されるようになりましたが、当時としては珍しく、一体どのような内容にすべきか、館職員さんが悩んでおられました。当時、町教委にいた関係で、何かと気にしていたことを懐かしく思い出しています。

この十回の歴史の中で、何よりも忘れてはいけないことは、西邑さん所蔵文書類の発掘です。当館の終戦記念展がなければ、恐らく全国的にみて貴重なあの文書は陽の目を見ることは無かったはずです。

今回のテーマは「戦地と家族の絆」~故郷・家族への想い~です。塹壕の中で書かれた家族への手紙、戦地から妻への手紙、出征する夫への手紙などを中心に、百五十点を上回る貴重な品々が展示されています。また、当館が小学生の社会科学習を軸に子どもたちにも関心を持たれており、展示は子どもたちにもわかりやすくを、心掛けているといいます。

私的なことで申し訳ありませんが、職員さんも人が悪い、私に内緒で今回のポスターに、私の両親の写真を使われました。

新婚五か月で出征した父からの、10通ほどの手紙、現代の私でも書けない、我が愛妻へ、愛しき妻へ、懐かしき妻へ、愛しき我が妻へなどといった宛名になっています。

このやり取りの中で、私がお腹の中に出来たことをほのめかしている部分が数カ所あります。私は、父の戦死後、誕生することになりますが・・・・・。

図版 「第十回 終戦記念展」パンフレット 開催期間7月28日~9月2日
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