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2012年7月

2012年7月30日 (月)

阪神ファンと義経

津軽といえば、誰しも頭をよぎるのは、「義経北行伝説」です。触れないわけには行きません。

津軽半島の突端部、竜飛岬を少し南へ走ると三厩(みんまや)」があります。ここで、ガイドさんが義経北行伝説について案内してくれました。下北半島側や、太平洋側の靑森、岩手など、あちこち十カ所以上に、こうした話が残されて来ているようです。

中でも有名なのは、三厩にある義経寺縁起によるという話です。

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表向き?の歴史では、文治五年(1189年)平泉の高館で藤原泰衡に襲われて、31歳で自刃したことになっています。
首級は鎌倉へ送られたものの、40日余り後で、首実検もさらし首にも出来ず由比ヶ浜に捨てたといういい加減な話で、そんなところからも義経は死んでいないという状況証拠の一つになっています。

津軽海峡まで逃げのびた義経は、さらに北に向かうため、念持仏の観音像を海辺に置き、三日三晩一心に祈ると、白髪の老人が姿を現します。そして、義経に三頭の竜馬を使わすのでそれで海を渡るようにと告げたといいます。海辺に三っつの岩窟があり、一頭ずつ馬がつながれていたので、この地を「三厩」ということいなったとも言われています。

江戸時代初期の林羅山編纂の「本朝通鑑」には「義経は衣川では死なず、蝦夷島へ逃れ子孫を残した。」と記され、また新井白石も「読史余論」に同様のことを書き残しています。あの水戸光圀でさえ膨大な調査をして、「大日本史」で、義経が平泉高舘で亡くなったことに疑問を呈しています。また、日本研究家シーボルトも、大陸を大調査をしてジンギスカン説を支持しています。

こうした背景を受け大正時代に庶民の間では、「ジンギスカン義経説」が大ベストセラーになりますが、多くの歴史学者からは否定され、今では、あまり相手にされていないのが現実のところです。

所詮は、日本人の、阪神フアンの心情と同じ、弱者を愛する「判官びいき」の生み出した幻だったのかも知れません。

写真 三厩の岩窟、バスの車中からは、上手く撮れませんでした。ネットからお借りしました。
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2012年7月27日 (金)

三成の子孫、津軽に存命

東北ネタで「津軽」と「南部」について書いた際、ある方から、コメントを頂きました。

それは、石田三成の子孫が、津軽藩の重臣として命脈を保ったというお話しです。義経については、ガイドさんの話に出てきましたが、こちらは出てきませんでした。わたしも、そのコメで、やっと思い出したという有様でした。

石田三成の次男重成は、小姓として大坂城で秀頼に仕えていました。三成没落の関ヶ原合戦後、小姓仲間の津軽信建に誘われて、弘前に逃れます。

Dsc00125_2父の津軽為信は徳川方で戦っており、矛盾したとも思える行動です。単に、小姓仲間の友情と見るには、少々、ことが重大です。

大坂を遠く離れた辺境弘前の地、しかも、東西決戦の行方も一応東軍の勝利とはいえ、果たしてこのまま徳川の世になるのか微妙な時期です。

父と子で、二股をかけたと見るのが妥当なところではないでしょうか。

慶長15年(16010)、29歳の若さで亡くなります。これも、徳川優勢の趨勢が固まり、邪魔になった三成の次男を抹殺したとも考えられなくはありません。

ただ、逸材三成のDNAを引き継ぐ子孫は、津軽家でも大事にされたと考えられ、娘辰姫は津軽二代藩主の正室となり、三代藩主を生むことになfります。

でも、辰姫はその後幽閉生活を送ったとか、幕府の目を考えてか、微妙なバランス感覚を思わずにはいられません。

また、重成の子は、秀吉と三成を暗示する吉成を名乗り幕末まで成の字を嗣いで行くという辺りにも何かがうかがえるのではないでしょうか。 

写真  残念!枝先にほんの少しだけ散り残った桜がある頃の弘前城天守閣、モミジの方が目立っています。
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2012年7月24日 (火)

巨大小谷城絵図

現在展示中の「小谷城絵図」は、巨大です。
北面の展示ケースは、高さが3メートル以上あるはずですが、それでも、裾部分が巻かれています。

こんな大きな絵図を一体どこに掲げたのか、疑問でもありますが、想像するのも楽しいことです。

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「現存する「小谷城絵図」の中でも、最大のものです。」との太田学芸員の説明でしたが、彦根市教委の谷口さんも、彦根城にも10種類以上あるとのことで、その大きさの比較は済んでいるのでしょうか。ちょっと、気になりました。

「小谷城絵図」は、西側(琵琶湖側)から眺望的に描いたものと、南側(清水谷側)から俯瞰的に描いたものに、大きく2分され、これはその後者に属するものです

江戸時代後期に描かれ、旧湖北町に伝来したものです。この絵の特徴は、大嶽を中央に垂直に一部石垣、崖、も描き込まれ一見すると天守閣に擬しているかのようになっていることです

何も知らない人がこの絵図を見ると、大嶽が天守、その東麓に本丸をはじめ各施設が、西麓に福寿丸、山崎丸が、まるで天守を護る砦か櫓といった感じを持つものと思われます。

とにかく、小谷城を立派に見せたいということを第一に考え描かれている絵像といえます。
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2012年7月21日 (土)

「津軽藩」と「南部藩」の怨念

下北半島など青森県東部から岩手県にかけての「南部藩」、青森県西部の津軽半島を主とする「津軽藩」は、大きな声では言えませんが、今でも、何かにつけて反目することが多いといいます。

もともと、このあたり一帯は全て「南部藩」でしたが、ある一族が奸計を巡らし独立を果たし、天正18年(1590)秀吉の小田原征伐に当たって、主家が躊躇する中、いち早く駆けつけ、秀吉から「津軽三郡本領安堵」という朱印状をもらい弘前に城下町を経営します。「津軽藩」の成立です。

Img264かつての家臣に肥沃な津軽地方を奪われた「南部藩」にしてみれば、津軽憎しの気持ちは強くて当たり前なのに、「津軽藩」は策略を巡らし山林を奪います。

さらに、将軍家斉の時代、幕府が何かの普請のため各藩に「ヒノキ」の拠出を命じます。「南部藩」は、「我が藩に育つのはクサマキで、ヒノキはありません。」と断ります。「津軽藩」は、「南部藩」の分も伐りだし、迷惑を受けます。

ところが、両藩の境界ヒノキの美林のある烏帽子岳がありますが、「津軽藩」は、「南部藩はヒノキがないと幕府へ申し出ている。だったら、このヒノキは全部津軽藩のものだ。」と南部領内のヒノキを伐ってしまったというのです。

この後にも、藩主殺害など何かと両藩の対立は続きますし、「津軽弁」と「下北弁」が大きく違うのも、薩摩がそうであるようにスパイの侵入を防ぐためだということでした。

素敵なバスガイドさんのお話でした。
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2012年7月18日 (水)

名家「京極家」でさえ!

戦国の世になってからも、新興大名たちから一目も二目も置かれていたと思われる名家「京極家」でさえ、家系が確定していないといいます。

佐々木氏が四家に分かれ京極家が成立してから5代京極道誉時代に、嫡流六角氏を圧倒、山名・赤松・一色ともども四職家に上り詰めます。

13320339_orgいつの世も、栄枯盛衰は人を待たず、応仁の乱期は「京極家」にもその波は押しよせます。そして、道誉から4、5代後には誰が跡を継いだのか判らない様な状況のようです。

浅井家の台頭目前、誰が京極家を推戴するのか、京極高広(高延とも)派と京極高佳(高慶・高吉とも)派に分かれて争っていたこの兄弟の父親京極高清が、持清の子なのか、孫なのかはっきりしていないのです。

こんな名家でさえ、しかも時代もそんなに古くない時代に、早くもぼんやりしているということは、その後の武家や庶民の家系等についても不分明なことは当然で、我が家のルーツをたどることなどナンセンスと言えます。

ネットや新聞広告に、家系図屋さんのCMがあります。スタンダードプラン5万円、デラックスプラン34万円、一体どういう商売なんでしょう?ご用心、ご用心!
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2012年7月15日 (日)

噓っぱち、姉川七本槍

元祖七本槍は姉川です」、こんなキザなタイトルご記憶にございませんか?

誠に申し訳ありませんが、謹んで訂正しお詫び申し上げます。

ある歴史ブログの大家が、姉川合戦にも七本槍があって、賎ケ岳合戦より時代が古く、姉川合戦の七本槍が先にあったとも考えられる・・・的なことを書いておかれました。そんなことはあるはずがないと思いつつも、引っ張られる格好で、アップしたんですが、大恥をかきました

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現在、当館で展示中の史料(隅っこにひっそり置かれていますが・・・)に、「江州姉川戦記」があります。「四戦紀聞」という4冊シリーズの戦記の1冊です。

屏風といい、最近「四戦」が流行りますね。でも、全般的に見ると「四戦」というまとめ方は珍しいのです。

今回、何が問題かといいますと、この書物はもう明治まで20年程という弘化3年(1846)に出版されていて、それだけでも胡散臭いのに、姉川合戦の戦記も数ある中、七本槍の話は、唯一ここにしか出てこないのだそうです。

風雲急を告げる幕末になって、戦記物で一儲けしようとした人が、何かないかとばかりに、賎ケ岳合戦に倣って七本槍を創作したというお粗末なお話です。

写真 この部分に、信長が感状を与えたとか、門奈左近右衛門などの姉川七本槍の人物名も書かれています。

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2012年7月12日 (木)

浅井長政像のこと

軸装された「浅井長政像」が、初めて当館にお目見えしました。

Dsc02119aこれは、江戸中期に、浅井三代の菩提寺徳勝寺(長浜市平方町・長浜ヤンマー南)にある「浅井長政像」の写しだそうです。徳勝寺にある元の絵は、浅井長政の一周忌にあたり、徳勝寺の宗麘(そうどん)が京都の画工土佐光吉に描かせたものです。

美しい緑色の衣服には、全体に三盛亀甲花菱の家紋を模様として散らしています。さすが、後代のもの、顔の表情も袈裟の文様も、くっきりと見ることができます。

この他、「浅井長政像」には、淀殿がお市の七回忌、長政の十七回忌に際して、秀吉にねだって描かせたと思われるものが、高野山時明院に残されています。

この一周忌、十七回忌の画像は、服装は異なっていますが、恰幅、顔つきはそっくりで、かなり正確に描かれているのではないかと思われます。

それと、この像が、150年ほども後に描かれ、たいした値打もないものと考えるのは早計で、元絵の方は、蝋燭や香のすすで色も明瞭でなく、この絵の存在によって、当初の色や詳細な部分を知ることができるといいます。

お市が、小谷城で浅井長政とともに死んでいてくれたら、徳勝寺に「お市像」が存在したかもしれないなあ、高野山に負けない美しい「お市像」がもう一幅見られたのになあ・・・・・・と、不謹慎なことを考えるのは私だけでしょうか。

はい、私だけです。
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2012年7月 9日 (月)

学校が浅井を棄てたわけ

旧浅井町内には、浅井中学校と5つの小学校があります。それぞれは、浅井東小、浅井北小、浅井西小、浅井南小、浅井中部小と呼ばれていました。

長浜市との合併に際して、旧市内にも、北小、南小があり、一緒に合併する旧びわ町にも、びわ南小、びわ北小があります。そうしたことも理由の一つではありましたが、もっと、深い意味での地名をどう考えるかという議論が起こってきました。

とりわけ、住所表記ではフリーだった角川町長がこの問題に熱心でした。

Img318_3やっぱり、「浅井」という伝統ある、由緒ある、輝かしい名前を手放すべきでないという意見はかなり強く、議会でも話題になりました。「浅井」という名が、本当に、何物にも代えがたい歴史ある伝統的な名前なのでしょうか。勿論、この地で刻んできた60年の浅井の歴史も確かにあります。

でも、その陰に消えているこの地に残る連綿として受け継がれてきた伝統の地名が存在するのです。

例えて言うなら、私どもの田根という地名、日本書紀に、天武期の壬申の乱の戦後処理の場所として「大臣中臣金を田根に斬る」とあります。湯田の湯は、渡来人「弓月君」の「湯次」に由来するものと思われます。

これらの地名は、千数百年の流れの中にあります。これらの地名を永遠に消し去ることは忍びないこと、せめて学校名学区名に残したいというのが発想のもとです。小学校名は、湯田、田根などの旧地名で明治以来呼び続けられ、浅井町が誕生してからも暫くはそのままでした。

東西南北や豊中市の中学校は、第1から第18まで番号制など、地名全く関係なしという大胆なものもあります。当地の場合は、「浅井」は中学校や様々な施設の名に、「上草野」「下草野」「湯田」「田根」「七尾」が小学校名、学区名に復活したのです。

これにも様々なご意見がお有りでしょうが、やはり地域の歴史は未来永劫大切にして行きたいという切なる願いがあったことをご理解いただきたいと思います。

写真 姉川地震の際、大きく壊れた田根小学校校舎全景 雨天体操場が倒壊、校舎のガラスもかなり割れています。

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2012年7月 6日 (金)

浅井が浅井を棄てたわけ

浅井町が、長浜市に合併する際、住所表記をどうするのかは、随分前からの検討課題でした。

議会でも、主として①長浜市浅井町内保123か、②長浜市内保町123かの2案について話し合われ、一応、①案の方が優勢でした。

0524my_picture_019_2町長は、どちらでもよい、特にこだわらない・・・ということでした。

湖北の雄、県下にも鳴り響いている(と、思っている人の多かった)「浅井町」の名は、消すべきでないという声が、若干上回っていました。

私は、郵便番号が機能している時代に、表記はなるべく簡単であるべき、そして、何より、今後何百年か永劫続いてゆく地名、いつまでも後で編入しましたと、宣伝しなくてもいいという考えでした。

何より、市内で子どもたちの住所氏名一覧表を作る際、長短バラバラ、田舎の子がばれるという単純な発想だったかもしれません。

2、300年後には、旧浅井辺りもビルが林立し、旧市街と一体化していて、この表記がぴったりとなっているかもしれません。

ところで、浅井の議会が、どうして②案に傾いて行ったかは、それは内緒です。

浅井の名を残しておくべきだったとの意見の人は、なお沢山おられますが、苦情があればいつでも当方で受け付けます。
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2012年7月 3日 (火)

なんだ!こりゃ!

Dsc02165_4内容も、なんだ、こりゃ!です。

台風4号の被害は、わが集落に結構な?被害をもたらしましたが、それに先だっての、お祭りの日の大嵐についても、子どもたちの身代わりかと記事にしました。

その吹き飛んでしまったお地蔵さんのお堂を、素人ながら立派に修理してくれた里人についても、ブログネタにしてきました。

継ぎ足した柱も、塗装で分からなくなり、屋根もペンキを塗り直し、お地蔵さんのマークもくっきり浮き出ています。

そのお地蔵さん、昨日、久しぶりの梅雨らしい雨の中、通りかかると、なんかおかしい。

えーーっと、目を凝らすと、なんと、正面に野良猫が雨宿りの最中、まるでご本尊のごとく鎮座していました。

心の広いお地蔵さん、嫌とも言わずに、猫に屋根を貸していたという微笑ましい田舎だよりのお粗末でした。

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