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2012年6月

2012年6月30日 (土)

アオサギに危機が・・・

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2012年6月27日 (水)

ながまちゃくんとおいちごちゃん

昨年、大河ドラマ「江」に関わって、浅井商工会が「ふるさとドラマ館」に登場させたユルキャラが、「ながまちゃくんとおいちごちゃん」です。

「江」博覧会が終了、「ドラマ館」も閉鎖され、両ユルキャラも失業して、時々あちこちのイベントに臨時雇用されていました。

Dsc02127_2しかし、2匹目のドジョウをねらった「大河ふるさと博覧会」の人気が今一息、何とか、起死回生のアイディアはないかと市の観光課も必死のパッチで知恵を絞り、浮かんできた一つが、ユルキャラ「ながまちゃくんとおいちごちゃん」の活用です

しかも、可哀そうに「仲むつまじい」はずの二人は、引き離されてのお仕事となりました。なんと、奥様の「おいちごちゃん」は、遠く木之本会場の方で、がんばることになりました。

二番煎じでない木之本会場の集客を目指すために、急遽、かりだされたのだと思います。本当は、、「ながまちゃくんとおいちごちゃん」をセットで、旦那さんも一緒に転居してほしかったのだとは思いますが、そこはそれ、浅井商工会が昨年作ったばかりの人気ユルキャラで、親元に気兼ねして、「おいちごちゃん」の単身赴任になったのではと、うがった見方をしています。

ところが、ユルキャラさんは、自分では動けません。動けないどころか介助者がいないと生きてゆけないのです。うだるような暑さの中、この中に誰が入るのかは重大問題です。高齢者のボランティアを入れて、蒸し焼きにするつもりかと思っていましたら、館を手伝ってもらっている若い職員さん(お二人おられますが、細い人しか入れず、その人がご指名と・・・)が、お入りになることになりました。

暑い、視野は狭い、まずまずの動きもし愛想よくしないと、お客さんの期待を裏切ることになるという、大変な役ですが、必死に頑張っていてくれます。

先日は、団体さんに囲まれて、両手で恥ずかしそうに顔を押さえるしぐさがかわいいと、バチバチ写真を撮られていました。

当館では、7月は土日のいずれかに、「ながまちゃくん」が、お迎えすることになっています。詳細は、時刻等「博覧会HP」でご確認のうえ、ぜひに会いに来てやってください。

写真 お客さんの「かわいいーー!!」の声に、照れて顔を隠している「おいちごちゃん」です。
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2012年6月24日 (日)

タンスの底から出てきた物

日付が、明治24年(1891)2月26日の「平民新聞」です。

Ppklqtuw_2ここで、困ったことが出てきました。通常言われる「平民新聞」なるものは、日露戦争に先立って、幸德秋水らが発刊した週刊新聞で、発行期間は、明治36年(1903)11月15日から、明治38年(1905)1月29日、発刊回数は64回となっています。

この明治24年の「平民新聞」は、一体何でしょう。どこを、どう調べても出てこないのです。

もう少し、研究してみる必要がありますが、「無血虫の陳列場」というこの記事の冒頭に「兆民生曰わく、衆議院,彼は腰を抜かして尻餅をつきたり、総理大臣の演説に震え、解散の風評を恐れ、2度までも否決した動議を大多数で可決したり。」と。

とにもかくにも、自由民権派の中江兆民が、衆議院の腐敗にあきれ、「国会議員のことを、無血虫とこき下ろし、国会は、その陳列場」と、切り捨てています。

日本史提要によりますと、開設が待たれた第1回帝国議会が、昭和23年11月からこの新聞の発刊された翌月の3月まで開催されています。中江兆民は、その 第一回衆議院議員選挙で、大阪4区よりトップ当選していますが、明治24年(1891) 政府側に妥協した国会土佐派の裏切りを怒り、「無血虫の陳列場」と称して国会議員辞職したと、略歴にありました。

たまたま、その記事が我が家のタンスの引き出しの敷紙として使われていたということになります。明治の曾祖父か誰かが、大事な記事として残しておいたものを、先々代あたりが使ったということでしょうか。

今の国会議員の中に、議会のていたらくを見て、議員辞職する人がいるでしょうか。国会開設当時の純粋な政治にかける気持ち、じんじん伝わって来ます。

でも、当時でも、少数派、兆民はこの後、病気にもなりますが世間から見放された格好で一生を終えます。

以来120年余り経っていますが、現代の国会議員のあり様も、たいして変わってないなあとを思った次第です。
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2012年6月21日 (木)

我が家もNHKNEWSに

滋賀県もそうですが、とりわけ、田根荘(たんのしょう)は、特別な災害の起こらない地域といった言い方をよくしてきました。

災害は忘れたころに・・・の言葉もありますが、世間で何が起こっても、「ここら辺は、大丈夫!」と、思い込んでいるフシがあります。

Dsc02141a今回の6月台風、皆さんの地域はどうでしたか?

当、田根荘、というより、なんと我が家の道を挟んだ隣で、夕方7時過ぎ、大変なことが起こりました。

商店の2階の鉄板(瓦棒)の屋根が吹き飛んでしまったのです。20メートル?に13メートル(NHK)という巨大なもので、轟音とともに舞い上がり、おそらく高圧送電線に触れたのでしょうか、稲光のような火花が散り、その後、道路の中央を通っている光ファイバーの太いケーブルに引っかかってしまったのです。

近所の皆んなが集まり、駐在さんは留守で、110番するやら、EO関連で関西電力やZTVに電話するやら、暴風雨の中、交通整理をするやら、てんやわんやの状況となりました。


Dsc02141ab_2大風の中、物干しに掛けたシーツのように、大きく揺れ、外れそうになり、周辺への被害の拡大も心配される程でした。

やがて、台風も通過、事なきを得ましたが、2台の大型クレーン車が動員され、10時ごろまでかかっての撤去作業となりました。

昨年、葺き替えられたところで、ご当家にとっては大変不幸なことでしたが、幸い人的な被害が無かったことは不幸中の幸いでした。

なお、昨夜はNHKテレビのニュースに、ヘリコプターから撮影した映像が登場し、我が家もちょこんと映っていました。

2012年6月18日 (月)

東福門院の家光への年賀状

東福門院、即ち、江の娘で後水尾天皇に嫁した「和子」の手紙です。宛名は、兄である「将軍家光」です。

年の初めのめでたさを言祝ぐ部分から始まっています。

この一通の書状、軸装していますが、流れるような漢字仮名まじり文の美しさ、文字配置のバランスの良さ、「東福門院和子」様は、決して、どこへどの字を配してどのように書こうなどと考えてはおられないはずです。

思うがままに筆を持ち、墨をつぎ、手紙をしたためていったものと思われます。

この書状には、およそ300文字が書かれていますが、この書き方だと、400字でも500字でも、好きなだけ書き込めるのです。

なぜ?

Dsc02106a_3
答えは、写真の中の書き順を示した線です。
右上から左下へ・・・という約束を守れば、何度でも、文字をだんだん、小さくして書き継いで行けばよいのです。

この文書、当館でただいま公開中です。

写りの悪い写真で申し訳ありません。撮影、公表の許可は、いただいていますが、遠慮して?、ケースのライティングのみで撮影しています。

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2012年6月15日 (金)

私の学友は、六角氏の重臣

いつか、草津市のある町内会の方々が研修に当館へやって来られました。その中に、大学時代の友人○川吉澄くんがいて、その名前は以前から気になっていました。

今回、展示替えになった古文書に「六角定頼文書」がありますが、これは、六角氏の当主が、家臣○川吉澄宛に出した
蜜柑一箱、200個を贈られDsc02069_2たことに対する礼状です。

この文書は、どう流れてきたのか知りませんが、長浜の名家四居家に伝来し、長浜城に寄付されたものです。

前回の記事で、中島家では、戦国以来「左近」を名乗って来ておられることを思うとき、学友に、陳列文書の宛名人と同じ名前がいるのは、偶然の一致なのか、歴史上の人物にあやかってその名を親が付けられたのか、やはり由緒ある家柄で名前を継いでおられるのか、気になるところです。

兄の住所を調べたところ、なんと、この文書に登場する「志那湊」につながると思われる志那町でした。

もう、決定的ですが、ネットで確認すると、佐々木源氏の系流で祖は実朝に仕えたり、4代当主の妹は将軍に仕えたりしています。また、連歌師の山崎宗鑑は、志那範重ともいい、この家の出身と言われているそうです。

ここで、ご本人に電話インタビューを試みることにします。

やっぱり、ご当家でした。ただ、代々伝わる名前でなく、父君が活躍したご先祖の名前を息子に付けられたものということでした。あれやこれや喋り、「○川吉澄と、ぼやかして書くけど、文書の写真で、○川が何か、ばれるけどご免な!」と、言って電話を切った次第です。

写真 六角定頼文書、宛名が源介となっていますが、源介吉澄といいます。

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2012年6月12日 (火)

浅井家のご子孫、登場

過日、小樽在住で現在は東京に身を寄せておられる92歳のおばあさんが、当館にお越しになりました。
ご高齢ながら、しっかりした口調で、とてもそのお歳には見えないどことなく気品のある方でした。

高齢で娘さんと従兄弟夫婦の4人連れでしたが、目的は自らのルーツを探りたいという一心でのご来館でした。
この方の里(親元)は、浅井を名乗り、家には古い錆びた刀があったといいます。
落城の際、蝦夷地に逃れ、アイヌの中に身を潜めたのではないかと考えておられるようです。

Dsc02040_2浅井家の末裔と聞いて育ち、昨年の大河ドラマ「江」で浅井家に関心を持っておられたところへ、実は、数日前NHKのアサイチで小谷城を紹介するコーナーがあり、そこに男の人が登場し浅井家の家臣の末裔だと語っておられたのです。

それを見て、その人に会いたい、家臣の末裔が住んでおられる浅井なら、浅井家の末裔のことも分かるのではないかと、矢も楯もたまらなくなり、ご老体に鞭打ち急遽、来館いただいたのです。

家臣の末裔を名乗りテレビに登場される人といえば、中島左近さんくらいかな・・・と見当を付け、連絡を取ってもらいましたら、何という偶然でしょうか、今、当館に向かっておられるという奇跡的なお話でした。

これこそ、浅井長政のお導きかと考えもしたくなるような出来事でした。

中島左近さんは、万菊丸の小谷城脱出を助けた人物として知られ、当家では代々その名を踏襲され、現代の当主は20代目だそうです。

ルーツが明らかになることはありませんでしたが、中島さんと約3時間あまり閉館時刻を過ぎても、熱心に浅井家子孫サミットは続いたのです。

当日の宿は大津にとって置かれ、明日もまた、この地を訪れるという、そのバイタリティに心から敬服するとともに、その方の積年の思いがいささかでも晴れればと切に念じてお別れをしたのです。

写真 中島さんを囲んでのお話し合いの様子、ご本人の了解をいただいています
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2012年6月 9日 (土)

バッサリ、切り捨て!大依文書

それぞれの集落に、それぞれの区有文書が伝わって来ています。

今回、当館の所在する大依区のどなたかが所有されている文書を含め、「浅井長政禁制と大依村文書」と題して、公開、展示されることになりました。

この文書群の最大の目玉は、蔵光庵宛てに浅井長政が発した「制札(禁制)」です。この禁制には、約束事があって、三項目を書き込むことに決まっていたそうです。4つでも5つでもよいように思うのですが、そこが面白いところです。

ここでは、蔵光庵に「一、乱暴狼藉を働かないこと。一、竹木を伐採しないこと。一、陣取り放火しないこと。」を、約束しています。

Dsc01973a
この禁制は、寺側が戦いに際して、戦火が及ばないように、金品を積んで、武将に頼み込むんだといいます。武将側に取っては、軍資金を手に出来るチャンスといえます。

ところで、大依文書最大の謎は、この禁制とともに、宛先の「蔵光庵」の場所が大依地先にあるという「地図」が存在することです。以前から、いささか微妙な問題を含んでいるという話を聞いてきましたが、いったい真実は、何処にあるのでしょうか。

長浜城の太田先生は、伝承は大切にして欲しいと言いつつも、学問的には、「その地図は、蔵光庵宛ての禁制があることから、生まれたもの。」と、三つの論点から論破されました。いずれも、なるほどと思わせるに充分な根拠を持つもので、大依区の方には申し訳ないですが、スッキリした気分になった次第です。

その三点とは、1.蔵光庵という寺が、かつて伏見に存在したことがいくつかの史料に散見されること。2.元亀元年九月に江北での戦いは考えられず、むしろ志賀の陣で京都近辺が荒らされる恐れがあったこと。3.文書末の「仍執達如件(よって、シッタツくだんのごとし)」は、京都では浅井氏は京極家の家臣としての立場であることを示し、江北宛なら「仍如件(よってくだんのごとし)」と強く書くはずとのこと。4.紙質から見ても明治期か大正期と考えられること。

たった、一通の「禁制」をまな板に載せ、一時間半汲めども尽きせぬ興味ある話の連続に、さすが太田さん!と、思わせてもらった次第です。

写真 浅井長政「禁制」
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2012年6月 6日 (水)

いい話、もう一つ!

身代わり地蔵さんのお堂は、壊れたままで藪の中に・・・、お地蔵さんは露座に・・・、そんなままで、日が過ぎました。

決して、放りっぱなしではなく、当番さんが、どうするのか検討されることになっていました。
近くの大工さんは修理は無理とのことで、木造で新設するか、ブロック造りにするか、見積もりを取った上で相談をする運びになっていました。

Dsc08901_2
その事情を知らなかった隣組のAさん、放っておくのはしのびないと、仲間を誘って修繕を買って出てくれ、ホームセンターで材料を調え、電動工具を駆使して応急修理を終えてくれました。

前の左右の柱も、途中で継ぎ足し、垂木も補強、L字金具で固定するなど、なかなかの出来上がりです

これで、あと10年や20年は、保ちそうで、最低でも100万円くらいはかかりそうという話からすれば、大変な節約になったことになります。

毛糸の帽子といい、このAさんの行為といい、「田根荘(たんのしょう)」の人たちの心意気を感じ取ることが出来、幸せな気持ちになった次第です。我が家の孫も、登校時、さすがめざとく見つけて、「あれ!直ったる!」と、私に教えてくれました。

このAさんにも、きっと、素敵なご利益があることと思っています。

写真 修理中の三勇士です。

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2012年6月 3日 (日)

「身代わり地蔵」の誕生

以前、4月3日の「波久奴神社春祭御輿かつぎ」について、記事にしました。
その記事は、祭りの日の朝のアップで、楽しげな紹介でしたが・・・・・。

補足記事として、「大雨」どころか、台風並みの春の嵐、暴風雨、40メートルの風、すごいことになって来ました。」と、書きましたように、前代未聞の大嵐の中での催行となりました。

Dsc01675_2自町から神社までの行列や、式典、記念撮影頃までは、大丈夫だったのですが、その後、ポツリポツリと降り出しました。午前の部の最後くらいから、本格的な降りになり、風も強くなってきました。5、6軒は出ていた露店も、早々に店じまいをして帰った業者もありました。

午後の参宮行列、強風で高張提灯を持つ人(我が家の息子もその一人ですが)が吹き飛ばされそうになり、立てずに歩くだけということになりました。

午後の御神輿巡行スケジュールも短縮し、子ども御輿も回数を減らしての巡行となりました。午後の式典も神鉾・御幣が倒れたりゴザがめくれたり、大変な状況の中で執行されました。

強風で、境内の樹木や竹は大きくうねり、折れた木の枝や木の葉が、拾っても拾っても落ちてきたり、雨が強くなり水も川のように流れるというすごい中、なんとか、餅撒き行事までこぎ着けました。

例年なら、すぐにも家に帰るはずですが、今年はビデオ撮影・編集を依頼されていて、早朝から祭典の一部始終を密着取材せざるをえないという不幸な?ことになりました。

編集の際、倒れんばかりに揺れ動く樹木や竹林、竹垣の映像を見ていると、何ごともなく終了したことが奇跡のように感じれられるくらいです。

もし、誰か落下物で怪我でもしたくらいなら、警察沙汰になって責任を問われること必定といった状況でした。木の枝が子どもたちの上に落ちたらと考えると自治会長や関係者は、ヒヤヒヤものだったと思います。

事件は、起こっていたのです

同神社の裏参道入口にあるお地蔵さん(以前、「村のはずれのお地蔵さんは♪」で、毛糸の帽子をかぶったお地蔵さんを紹介しました)の横に、地蔵堂もあります。その、地蔵堂が、今までどんな強い台風が来てもビクともしてなかったのに、なんと、吹き飛んで地蔵さんも転がり落ちていたのです。

県下で暴風警報も出ていた中、子どもたちに何の事故も起こらなかったのは、このお地蔵さんが身代わりになってくださったからだと、確信しました。

写真は、数年前の地蔵盆の日の地蔵堂風景です。




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