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2012年5月

2012年5月31日 (木)

NHK様のご威光

これは、事実かどうか、知りません
ただ、小谷城の語り部の方のお話しにあったことで、責任を私に取れと言われても応じかねますので、念のため・・・。

私も感じていたことでしたが、小谷城のドライブウエィは開通当初、どこも見晴らしがきき、遠くまでの眺望を楽しむことが出来ました。

最近では、樹木が茂り、殆ど眺望がきかなくなりました。勿論、桜馬場や大広間跡は、以前からそんなに見晴らしは良くありませんでした。

Dsc00991_3観光客の増加もあり、近年、小谷城址保勝会などが、県に対して「樹木の伐採許可」を強く要望して来ました。でも、過去の文化財保護に関する地元の対応もあり、一切許されないまま日が過ぎて来ていました。

この状況は、昨年のNHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」制作決定で、がらっと大きく変わったといいます。

どんどん、伐ってもよいとのお達しで、かなり大規模に伐採され、さすがNHK様のご威光の大きさを感じています・・・とのお話でした。案内中、3,4度この話が出てきて、よっぽど、この方は身にしみて感じておられるんだなあと、感じ取った次第です。

でも、そのお蔭で、時任三郎長政と鈴木保奈美お市が、琵琶湖を見て語るシーンが撮影でき、その場所が「小谷城新名所」となったのです。(お輿入れは、清水谷で、あんな山ヘは登ってないですが・・・。)

何よりも、この伐採で、伊吹山上平寺城、関ヶ原、横山城、遠くに佐和山城、安土山、八幡山、比叡山、湖西の山々までを一望の下に望むことが出来、改めて、この城の戦国時代における戦略上の位置の重要さを再確認出来たことは大きな成果であったと断言することが出来ます。

写真 眼下に虎御前山、清水谷、琵琶湖の風景がひろがります。

2012年5月28日 (月)

秀吉、家康、どっちが上?

秀吉と家康、どっちが武将として優れていたのか、よく論じられる命題です。

最終的に長期にわたる政権を開いたことを思えば、家康が一枚上手であったと言えなくもありませんが、これを武将としての能力の故であったとは、誰も言わないと思います。

Sp01信長の家臣団中で、先輩格の、しかも家柄もいい家康が、後輩で貧しい農民出身の秀吉に、年齢は5歳下だとはいうものの、出世競争で先を越されていることは、歴然とした能力差というべきでしょう。

様々な軍事作戦でも、調略などの手法でも、とうてい家康に真似の出来る状況にないことは明白です。

ただ、家康が秀吉より優れたところは、自分の性格、才能、力量の限界を知っていて、或いは、いつも内輪に判断し、その機が熟するまで、焦らず、ジーーっと忍耐して待ったことといえます。

この部分については、国の内外、時代を問わず、天下取りに近づいた人物は、自らの力を過信して、とことん突き進む弊を犯します。ナポレオンもヒットラーも信長も、しかりです。

その意味で、家康は、自らを過信することなく、臆病すぎるくらいの内輪な行動を取ることで、最終の勝利者になります。
ギラギラしないで、口を開けて、上を向いて待っていたら、ボタモチが落ちてきた・・・といったところでしょうか。

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2012年5月24日 (木)

地下の毛利庭園

友人が銀座の画廊で書展を開催しています。そのオープンパーティが、偶然でしょうか、東京スカイツリーオープン前日に行われました。建築好き人間にとって、こんなラッキーなことはありません。どっちが、メインか、ご本人には言ってませんが参加しました。

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パーティ前にツリー界隈を、当日は暴風雨の中でのスカイツリーソラマチの全貌を堪能しました。建築好き、高い所好きには、これで満足できず、池袋サンシャイン60の最上階と六本木ヒルズの展望台を征服して帰ってきました。

ところで、六本木ヒルズの近くには、朝日テレビのお天気キャスターが立つ「毛利庭園」なる場所があります。展望台の警備員さんに尋ねますと、ビルの直下を指さしていただきました。

そして、こんな話を教えてもらいました。

この辺りは、江戸時代毛利家の広大な江戸屋敷があり、明治になって、後の中央大学を創始する人の屋敷になっていたのが、戦災で焼けてしまったそうです。その後、ニッカウイスキーの工場になり、現在は朝日テレビと六本木ヒルズの敷地になったといいます。

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ところが、今ある庭園は全く別物で、本物の沼を中心とした「毛利庭園」は地下深くにそのまま保存されているというのです。じっくり、発掘研究が出来るまで温存していることに、何かしらほっとするものを感じました。

警備員さんのガイド、控えめで的確で、私たちも学ばせていただきたいと思います。

写真  上、オープン前日の東京スカイツリー    下、六本木ヒルズ森ビルからの毛利庭園跡・朝日テレビ
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2012年5月21日 (月)

 お市はお茶を点てていた

茶道は、室町中期に成立し、隆盛を極めるのは、千利休などで代表される戦国期であると思われます。利休が切腹を命じられるのが、1591年ですから、お市たちが小谷で暮らしたのは、その20年ほど前ということになります。

こんな時期に、ちっぽけな田舎大名の小谷城大広間跡の一角から、中国伝来と思われる白磁などの茶器の破片が出土しています。

Dsc01687_3
「そんな早くから」と言いたいところですが、お市が信長の妹であると考えれば、その疑問は氷解します。先進的な、珍しがり屋さんの信長は、おそらく最先端を行く茶道具を集め、茶道を嗜んでいたと思われます。

写真の通り、白磁の破片は、ほんの小さなものですが、他にも、備前焼、信楽焼などの破片もあり、大広間の一角に設えられた茶室で、静かに長政とお茶を嗜んでいたと考えたいのです。

ただ、問題は、大広間などの山上で暮らしたのが、信長軍に囲まれた最後の1年だとすると、お茶どころの騒ぎでなく、嫁入り道具に持ってきた茶道具一色を荷物と一緒に運び上げ、落城の際ぶっ壊れたと考える方が真相に近いのかも知れません。

この資料解説には、「浅井家の財力を示す・・・・」云々と学芸員さんは書かれていますが、私はあくまでも「嫁入り道具に忍び込ませてあった茶道具」説を、何の根拠もなくとなえたいのです。

写真 当館1階展示室 小谷城出土品の数々

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2012年5月18日 (金)

得体の知れないモノ

当館展示物の中で、唯一展示説明のプレートの付いていないモノがあります。

Dsc01676
改装オープン時から、気になる存在でした。

写真の通り、見かけは「チョコレート色」の「卵状」のモノが、「大小6 個」転がっているという展示品です。

前回紹介の「伝お市所持の扇子」でさえ、見過ごしたと言われる方がおられましたので、気づかれずに通り過ぎられる方の方が多いのではないかと思います。

当初、私たちもなんだか分からず、「もし、質問しゃーったら、どうしょ!」と、言っていた時もありました。

資料館のお近くの家の蔵にしまわれていたモノで、丁寧な「漆塗り」仕上げの木製品です。それぞれ、中空で・・・・・と、申し上げると、鋭い方は、反応していただけます。

日本製の「マトリォーシカ」だと、考えられます。

でも、この言い方は間違いで、逆に日本の箱根細工の入れ子人形(こけし・だるま・七福神)が、ロシアに伝わったという説が有力だそうです。

江戸時代のハイ・ソサイティーのお嬢さん方の遊びの一種だそうで、ただ、戦国の姫たちの遊びにまで遡れるのか、長浜城歴史博物館の学芸員さんも躊躇され、展示はするがプレートがないという微妙な結果になっているのではないかと思われます。いや、プレートを作るのは、当館の仕事でしたか???
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2012年5月15日 (火)

お市さん所持の扇子

当館で、唯一、「お市」そのものにかかる展示物といえば、「伝お市所持の扇子」です。これは、改装前から、目玉展示品として知られてきました。

時には、これを目当てにお越しいただく方もおられます。

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写真でも、お分かりのように、虫が食ったか、使い古されたか、自然な古び方は、時代を感じさせるに十分の品です。これまた、古風な木箱に入っており、「お市の方所持の扇子」と明瞭に箱書きされています。

扇面には、浅井を意味する「井筒・井桁」、その中に「三盛亀甲花菱」と呼ばれる浅井の家紋の「花菱」が一個大きく描かれています。木
長浜城のある学芸員さんが、中央は花菱ではなく、お市の親元の織田家の木瓜(もっこう)家紋でないかとのことでした。でも、織田木瓜は、五瓜であり、いささか無理がありそうです。

浅井の地のある旧家に所蔵されていたそうですが、いまは浅井のある方の所有物になっています。

ただ、わたしが、このブログに登場させるが遅くなった理由は、デザインと紙質、大きさです。

これ以上を、申し上げるのは差し控えさせていただき、ぜひ、ご来館の上、ご自身でご判断いただければと考えております。

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2012年5月12日 (土)

美少女「茶々」の登場

最近、郷土学習館の1階から2階への踊り場に、50号の日本画の大作が掲げられました。西宮市の日本画家原田巴氏がご寄贈くださった「茶々」です。

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氏は、これまでにも各種の展覧会で入選、入賞を繰り返され、個展も幾度か開催されています。
最近では、その作品を各地の関係ある施設に贈って来ておられます。

茶々(淀殿)に関する肖像画は殆どなく、あったとしても「伝」であったり、イメージも今一息私たちの思い描くものとかけ離れていたりと、不満を募らせてきています

そんな時、この美少女像「茶々」の登場は、われわれの胸のつかえを晴らすような、当館にとっては画期的な出来事でした。どこか、AKB48の誰かにも、また、あの美しさで知られるお市画像にも似ているような、、少し憂いを含んだ表情に思わず見とれてしまうのは私だけではないでしょう。

醍醐の花見を彷彿とさせるような、満開の枝垂れ桜の下に、鹿の子絞りの小袖と打ち掛け姿の茶々が、艶やかに描かれています。

右下に見える黒い部分が、これからの茶々の秀頼との自害や大坂落城などの不運、不幸を暗示しているということです。

是非、この美しい「茶々」像に出逢いに来ていただければと願っています。
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2012年5月 9日 (水)

きをてらいすぎ「吉田神社」

京都個性派古建築めぐりの最後です。

「吉田神社」は、、「紅萌ゆる丘の花」京都大学の学生歌で知られる「吉田山」にあります。今では、余り言われなくなりましたが、「吉田神道」の名で一世を風靡した神社です。

吉田神道とは、室町時代の末期に、吉田兼倶(よしだかねとも)が大成した神道の一派です。神道・儒教・仏教・道教の四教および陰陽道の関係を説いて、神道を全ての根本とした考えです。

250pxyoshida_shrine_funeral_hall兼倶は唯一神道(吉田神道)を創始し、既存の伊勢神宮系の神職たちと激しく対立しながら、後土御門天皇を信者として獲得するなどして勢力を拡大し「神祇管領長上」なる新奇の称号を自称します。

以後、白川家を押しのけ、全国の神社に対する支配を広げてゆくことになります。兼見にいたって織田信長の推挙により、公家に列せられます。明智光秀と深い親交のあった兼見の日記『兼見卿記』は、本能寺の変の真相をはじめ、織豊政権期の研究に必須の重要史料となっています。

江戸幕府とも、良好な関係を維持し、神道界における吉田家の優位は続きます。その頃、建てられた吉田神社の末社となっている斎場所大元宮(さいじょうしょだいげんぐう)が今回の見学地です。

我が国中の八百万神をまつる大元宮を中心とし、周囲に伊勢二宮をはじめ、全国の延喜式内社三一三二座を祀るという形式になっています。(なのに、吉田神社は、延喜式内社ではないというのは、ちょっと?)

江戸期には徳川家によって保護され、神道管領長上として吉田家に神職許状を出すことが許され、江戸期には吉田家が、全国の神社を統括していました。

本殿(重要文化財)は慶長六年(1601)の建築で、正面は八角形の神殿で、後ろに六角の神殿が付いています。屋根は入母屋造・茅葺、棟には神のシンボル「千木(ちぎ)」「勝男木(かつおぎ)をあげています。普通の神社は、前後揃えていますが、数も違えば、形も丸と角、切り口も垂直、水平と、無茶苦茶ともいえるような配置になっています。また、欄干の横木の切り口も、丸、三角、四角、これらは、陰陽を形で表したものだそうです

とにかく、ありとあらゆる方法で、異形の建築物たることを、追い求めている感があります。変わったモノを造ることだけを念頭におき、そのことに命を懸けたと言いたいくらいの構造になっています。

明治4年までは天皇を祀る神殿もありました。そのことで、わかるように、明治以降は天皇家を頂点とする神道に取って代わられ、昔日の面影はなくなったいえます。

この神社に参詣すると全国の神社に詣でたものと同じ効験があるとして、毎年節分の日を中心に前後三日間行われる節分祭には多数の参詣者で賑わうそうです。

写真 吉田神社斎場所大元宮(ここも、写真は撮れません。ネットから拝借しました。)
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2012年5月 7日 (月)

京都三角、京都三閣「飛雲閣」

個性派古建築探訪の続きです。

大倉喜八郎さんも、密かに、「金閣」「銀閣」に次ぐ「三閣目」として、「祇園閣」を想定していたのかも知れません。
でも、本家の「三閣」(あまり、喧伝されていませんが)は、「金閣」、「銀閣」、「飛雲閣」です。

Dsc01113
この、「飛雲閣」もコースに入っていました。

以前、飛雲閣について触れた時、どなたかが、「学生時代にお茶席のアルバイトをしました。」と、書き込んでいただいて、「えーーーっ、昔は西本願寺も、国宝の飛雲閣で金儲けをしていたのか?」と、思っていましたが、今も、年に一回、5月21日、親鸞聖人のお誕生日に、茶会が持たれているそうで、一安心しました。

ところで、「聚楽第」の遺構ともいわれる・・・と聞いてきましたが、ほぼ断定して間違いないように思います。

「聚楽第」にあったとき、完全に池の中の島に建てられていて、今も「舟入の間」があります。古代ローマ遺跡の何処かにもありますが、敵からの防御には最適な構造です。勿論、舟遊びをして池を巡ることも出来ます。

「三閣」の内、「金閣」、「銀閣」は、左右対称、何処から見てもほぼ同じように見えます。「飛雲閣」は、全く、対称になっていません

その理由は二つ、思わず成る程と頷くものでした。

一つは、舟遊びで一周するため、どこからも同じ格好では格好が悪いこと・・・・・。

もう一つ、秀吉の座る場所の上には、部屋を造らなかったこと(仏壇の上に部屋を造らないように)・・・・・。

ところで、「飛雲閣」は撮影禁止でした。いくら国宝とはいえ、池の真ん中にあって人の手も届かず、フラッシュの光で退色することもないのに・・・、その内、火事ででも炎上すれば、一人でも多くの国民のカメラに収めさせておくのが国宝を預かる立場の考え方であってもよいのに・・・などと、全くのヒガミ根性丸出しの気持ちを胸に秘めての見学でした。

写真 真面目に指示に従っていることを見せつけるための、西本願寺両堂連絡廊下からの飛雲閣上部

3日に1回更新といいながら、連休ボケでしょうか、一日遅れになり申し訳ありません。2日後に更新します。なお、にーにさんのご指摘をいただき、親鸞聖人の降誕会の日を訂正させていただきました。

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2012年5月 3日 (木)

異様な京都建築物!「祇園閣」

円山公園や高台寺から、一風変わった建物が見えます。
勿論、全容は見えず、その先端部分が見えるだけですが、まるで、祇園祭の長刀鉾そっくりのスマートな構造物なのです。

Dsc01162_2しかも、どうみても木造の伝統的な建物ではなく、鉄筋コンクリート造りのように見えます。
建築に関心のある者として、気になっていたのですが、確認する方法もなく、日を過ごしてきました。

ところが、今回、ジパングクラブの企画で、京都の個性派古建築を探訪する講座が、開催されました。講師は、宣京師、京都おもてなし大使などというなんともいえない肩書きを付けた小嶋一郎さんですが、JR西日本や日本旅行では有名な人のようです。

この寺、織田信忠の法名にちなみ「大雲寺」と名付けられた浄土宗の寺院です。しかし、この寺かなり変わった遍歴をたどっています。

もともと、四条にあり、昭和48年高島屋の店舗拡張のため、この地に移転してきました。
ここは、大倉財閥(乾物店から貿易事業に乗り出し、政治家とつながり十五大財閥の一つになりました。現大成建設やホテルオオクラで知られています。1998年に、大倉商事は自己破産しました。)の創業者大倉喜八郎の別荘地でした。

大倉喜八郎が全盛期に、祇園祭の壮観を常に多くの人に披露したいと願って建てたのが、この異様な建物「祇園閣」なのです。鉄筋コンクリート3階建て、高さ36メートル、鉾先には金鶴が輝き地中の基礎も、30メートルに及ぶといわれています。

寺となった時、一階に阿弥陀如来像が安置されました。

三階からの京都盆地の眺望は、まさに息をのむ絶景です。足下の墓地には、信長・信忠の供養塔、南極観測の西堀隊長の墓や石川五右衛門の墓などもあります。何という、取り合わせでしょうか!

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