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2012年4月

2012年4月30日 (月)

称名寺文書公開!

湖北十ヶ寺の雄、称名寺については、すでに何回か紹介してきました。

浅井氏とともに信長に抵抗し、一時没落するも、秀吉時代になって失地を回復し、再び湖北真宗の中核寺院として地位を維持してきました。

戦国期からの様々な古文書類が残ることでも有名です。

今回、浅井氏や秀吉など戦国武将との関連を示す史料、六点が展示されています。

Dsc01614写真は「浅井賢政」書状です。浅井賢政は、浅井長政の改名前の名で、元服の時、六角氏が当主・六角義賢の賢の文字を上下関係を明示するため与えたものです。また、同時に、(自らの娘でなく)家臣の娘との結婚を強いたのです。

この文書は、永禄四年のもので、おそらく、この「浅井賢政」という名を名乗っている時期は、本人はこの名のことを決して快く思わず、ムカムカしていたはずです。

もう一通、「浅井長政」文書がありますが、これも永禄四年のものです。

前者には、三月九日の日付が、後者には六月十日の日付があります。この、三か月の間に、●「賢政」の名を返上し、「新九郎」と名乗り、●結婚した家臣の娘を返し、●「新九郎」という名を、今度は、信長にあやかったか「長政」と、改名したと、考えられます。

この、ドラマチックな長政をめぐる状況の推移が、この二枚の文書から読み取れることも、歴史を読み解くことの面白さといえるでしょう。

この頃、美濃の斉藤氏を、信長が尾張側から攻め、近江側から浅井氏がちょっかいを出そうとしていた時であり、「お市」が、小谷へやって来る環境が整えられつつあった時期と、とらえることも出来ると思います。
当ブログ、3月1日のご挨拶のとおり、3日に1回の更新に改めました。途中の日にお越しの方には、ご迷惑をおかけしています。お許しください。

 

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2012年4月27日 (金)

やさしい姉ちゃん!

長浜の幼稚園通園で大事件が起きた頃だったでしょうか・・・。

子どもたちの通学を「見守りたい」と思う、「田根荘」のじいちゃん、ばあちゃんたちが「田根学区子ども見守り隊」を組織されてから、7年目になりました。

Dsc00775a通学時間になると、家の前で草むしりをしたり、立ち話をしたりしながら、見守っています

最近、目にした光景です。

T地区は、学校から離れていて3キロ近くあります。今年、新1年生が加わりました。

ある日、4年生の女の子が、ランドセル(型の通学カバン)を背中に1つ、前に1つかけて、登校してきました。
弟が、入学してきたのです。姉ちゃんとして、弟のカバンを持っての登校でした。その4年の子、体型も細く入学した頃から気になる子でしたが、いつの間にか、たくましく育ってきています。

姉ちゃんがカバンを持っていない日がありました。「あれっ、どうしたの?」と聞くと、「○○ちゃんが、代わってくれやんた。」と、ニコニコしています。

姉ちゃんなりの配慮でしょうか、2週間を過ぎた頃から、1年生の弟が、背中にカバンを掛けて通学するようになりました。

いつも思っていることですが、T地区の子たちは、我が家の孫と比べると、毎日3倍以上の距離を歩いています。小学校1年生から6年間、成長期の子どもたちにとって、この差は余りにも大きく、その後の人生に大きな影響を与えることだろうと思われます。

写真 T地区の子たちの通学風景、これは3月のものですが、卒業生がいなかったので、このメンバーに新1年生が1名加わりました。
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2012年4月24日 (火)

「はしご山」に再会した感激

この「四戦図屏風」で、意外なものに、遭遇しました。

それは、「はしご山」です。

Dsc01064aご記憶にありますでしょうか、当ブログの昨年6月27日の「合戦、79年後の証言」で取り上げた地名です。「合戦ノ時、郷人ドモハシゴ山ヘノボリテ見物仕ル・・・・・」云々とある「はしご山」です。

姉川合戦に際して、村人は山に登って、戦いを避け見物していたという、のんきな表現は、さすが合戦から79年後、平和ボケの元禄時代人の感覚だろうと思います。

実際は、浅井家の兵士たちの大半は、農民だったはずで、女子どもは山ヘ登っていたとしても、そんな悠長に見物はしていなかったはずです。

自らの村々は、焼き討ちにあい、夫や子どもが戦場で戦っていて、心配で心配でたまらなかったものと思われます。

ところで、このはしご山ですが、今では誰も知りません。
でも、当時の文書や屏風に、二カ所も出て来るという、その頃はよく知られた地名だったようです。

山の名前も、そんなに多く書かれているわけではない屏風に、この地名を発見した喜びを、誰かに伝えたくて一文にした次第です。

この四戦図屏風の「はしご山」は、少し、「はしご」に似た形に描かれていて、機会があれば現在の七尾山のどこかに似た地形がないか探しに行ってみたいと考えています。

私より先に、誰かさんが見つけられそうですね。

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2012年4月21日 (土)

「 遠州さん」の歌に思う

下記は私が子どものころ、遠州公三百年忌に合わせて作られた「遠州さん」という歌です。今でも、歌うことが出来ますし、息子も、孫も、歌ってきましたし、下の孫も、間もなく歌うことでしょう。

Img262遠州は、正保四年(1647)に亡くなっていますので、この法要は戦後間もなく営まれたことになります。
私たちは幼く参加しなかったのでしょうか、記憶がありませんが、これらの歌を記した印刷物が我が家に残っています。

作詞は孤篷庵の前住職小堀定泰さんで、写真でもわかるように、「遠州公三百年忌の歌」、「遠州小堀宗甫公」なども同時に作っておかれます。

♪遠州さんは何処の人 生まれは坂田の小堀村 田根の小室に城築き 池を掘ったり 道も付け 恵みの深い お殿様♪

♪遠州さんは偉い人 若いときからすばらしい 洞水門を工夫して お師匠さんも舌をまく 頭の良い人偉い人♪

♪遠州さんはきばる人 忙しいけどひま作り 夜昼しっかり座禅して 落ち着き払ってむだもなく あせらずうまずきばる人♪

♪遠州さんはわかる人 茶碗をお駕篭に乗せてゆき 時分はお供でついてゆく 窯変油滴についてゆく 道具の鑑定(ききめ)のわかる人♪

♪遠州さんは光る人 桂の離宮や大徳寺 庭や建物こしらえて 世界の人を驚かし これからますます光る人♪


「梅ちゃん先生」の時代背景でも明らかなように、戦後の全く何も無い時、活版印刷でこのような印刷物を作ろうとされた当地域の先輩方に、心からなる敬意を表したいと思います。

長い苦難に満ちた軍国主義の時代が過ぎ、文化国家、新生日本を目指そうとした先人の心意気を感じ、さすが、五先賢の里なんだなあとの思いを強くしている次第です。

とりわけ、最後のフレーズ、「これからますます光る人」に込められた、痛いくらい熱い思いが、まさに的中し、現在の遠州ブームとでもいえる時代を創出したといえるのかもしれません。
春休みに神奈川県からご来館いただきましたご家族連れの方、資料を送付するとお約束したそうですが、住所メモが見つからず失礼しています。ご連絡いただければ幸です。

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2012年4月18日 (水)

太田先生、遠州を語る

昨日、「五先賢の館」で、田根郷土史研究会主催の講演会が持たれました。
講師は、我らが太田浩司先生、演題は「小堀遠州の生涯と業績」です。yawaragiさん も、ご来館くださいました。偉いもんです。

Dsc08898わが故郷の五先賢の筆頭、遠州さん、私も小学3年生の頃覚えた「遠州さん」の歌を諳んじているくらいの人物で、何を今さら・・・・と、いったところもありつつの参加でした。

でも、ホント、知らないことが多かったなあ・・・と思い知らされた次第です。

こんな書状が残っているといいます。「今、江戸へ米を運び込んだら、儲かるぞ!」、すました文化人としての遠州の裏側に、そんなセコイ金儲け主義の顔が垣間見えるというのです。

普請は土木工事を言い、作事は建築工事を言うとのことで、家を普請するという言い方は、間違っているんだけどなあ・・・と、独り言のような発言がありました。

遠州略年譜をたどる中で、国主として関ヶ原、大坂冬の陣、夏の陣参戦、奉行として検地なども含め行政面での活躍、伏見城本丸、後陽成院院御所、駿府城、名古屋城、内裏、伏見城書院、東福門院女御御所、大阪城、二条城、大阪城天守、金地院、水口城、仙洞御所、二条城本丸数寄屋、内裏新築、明正院院御所等の普請・作事奉行としての業績、家光接待などの茶会開催、綺麗さびの見立て力での活躍等々、マルチ人間としての遠州像を描出いただきました。

レオナルド・ダ・ヴィンチかミケランジェロといった、多彩な業績には舌をまくばかりです。

ただし、この多忙さには、遠州自身もかなり辟易としていたようで、老中宛に、「この多忙さを何とかしてくれ・・・」と、頼んでいる文書が存在するようです。

太田さんの八面六臂のご活躍にも似たところがありますね・・・・・と、後の会の中で、冷やかしておきました。

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2012年4月15日 (日)

珍しいお客様でした。

20年余り前、長浜の中学校へALT(英語指導助手)としてやって来た女性、Aさん、当時21歳、大学を飛び級で卒業してきた才媛でした。

ホントにステキな女性で、職員たちは「これがアメリカの一般的な女性だと思ったら大間違い・・・」と、思い込むのに必死?でした。

3年間勤務し、ミシガンへ帰りましたが、その後も、日本とアメリカの架け橋として様々な活動を積極的に展開してきてくれました。2,3年前にも来日しましたが、今回、7回目の純私的な日本訪問となりました。

ご夫婦と6歳と4,5歳の二人の女の子という4人のファミリーですが、現在、壮大な実験中なのです。

Dsc01408純然たるアメリカ人のご両親と、まるでフランス人形のように可愛い姉妹なんですが、なんと、その二人の口から出てくるのが、完璧な日本語なのです。

浅井歴史民俗資料館へお越しをいただいたのですが、中庭の池をのぞいて、「あめんぼうがいる!」と言って、職員さんを驚かせたり、二人がじゃれ合ったり、言い合いをするのも、お母さんに甘えるのも日本語なのです。

日本語に堪能な両親が、家庭内では日本語での子育てを目指し、テレビも日本の教育テレビを見せるといった徹底ぶりで、姉妹が、日本で暮らしたのは、2週間ほどだといいながら、両親以上ともいえる完璧な日本語を使っています。

お母さんの心配ごとは、幼稚園へ入園したとき、英語が話せるかどうかだったといいますが、あっさりとクリヤーしてしまったそうです。

問題は、小学校へ入学し、友達やTVによって、この遠大な構想は挫折するだろうなと・・・考えてきたのですが、お母さんがinternational schoolの経営に関わられ、そちらの環境を選ばれたので、当分、この実験は継続して行きます。

本人たちが両言語を意識する年まで持続すれば、意外や意外?、自宅に於ける日常的バイリンガル獲得実験は大成功ということになるのかもしれません。

「糸姫の館」では、日本の昔の玩具にいたって関心が高く、お手玉、おはじき、けん玉などで、ずいぶん長い時間を過ごしてくれました。火鉢を囲んでの「すずめの寄合」にも抜群の興味をしめし、何度もせがみキャァキャァ楽しんでいました。

職員さんから稲の穂やかき餅もプレゼントしてもらい、存分に日本体験をしてお帰り願いました。

写真 当館、顔出し看板の4人、お父さんはむこうです。
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2012年4月12日 (木)

「四戦図屏風」あれこれ

文字どおり、四戦、即ち4つの戦争について描かれている屏風といえば、総大将はじめ数多くの兵士が描かれていると考えるのが普通です。

でも、この屏風には、人物が一名も描かれていません。
人物と言えば、人名がしっかり書かれていて、時には、その戦いの時点での年齢までも書かれている場合があります。
Dsc01061cut1



見られるのは、山、川、道、城、若干の民家、樹木などで、とりわけ街道沿いの並木はびっしり描かれています。

あと、特徴的なのは、総文字数を勘定することさえ出来ないくらいの詳細な説明文が書かれていることです。その文字の整然としたこと、まるで活字かと見まがうくらいです。

ただ、面白いことに、
「元亀元年四月二十日信長公自京都直發向越前国
二十五日到敦賀攻手筒山城柴田修理亮勝家
木下藤吉郎秀吉池田紀伊守信輝急撃之
家康公兵率會焉城遂陥斬首一千三百級
二十六日信長進囲金崎城城主
朝倉中務景恒乞降・・・・・・・・・・・・・・・・・・」などと、書かれていますが、なんと、下書きの線が入っていなかったのでしょうか、折角の文字の列が、下で左方向へ曲がっているのです・

小野湖山(田根荘の五先賢の一人)の書でも、九十歳過ぎた頃のものは、同様に左へ曲がっていると聞いたことがあります。この人の、年齢は知りませんが、この1扇だけは曲がっているのです。きっと、金沢兼六園の成巽閣の原本は曲がっていないと思います。

おそらく、この大失敗を後悔してか、以下の全てで、真っ直ぐに書かれています。

この屏風は、図とは言いながら、芸術的な、美術的な立場で描かれたものでなく、歴史的な戦争説明図のような性格のものだったといえます。

読み物としての屏風とでも言えばいいのでしょうか。
とにかく、不思議なものです。

ご来館の折には、オペラグラスでもご持参くださると、しっかりお読みいただけるかも知れません。

写真 小谷城、大寄山、姉川の描かれた部分。ここの文字列は、真っ直ぐに書かれています。
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2012年4月 9日 (月)

寄せ集め「四戦図屏風」

今回の「大河ふるさと博覧会」に際しての、当館のリニューアルの目玉の一つに、「四戦図屏風」があります。

「四戦図屏風」、文字通り4つの合戦が描かれている六曲一双の屏風です。その4つとは、「姉川合戦」、「賤ヶ岳合戦」、「関ヶ原合戦」、「長久手の戦い」です。
Dsc01081_2



4つの戦いが描いてあるから、その名が付くのなら、古今に多くの「四戦図屏風」が存在するはずですが、余り他に例は無いようです。

金沢藩の兵学者有澤永貞が延宝年間(1673~81)に描いたもので、原本は金沢の兼六園にある「成巽閣」に残されています。今回展示されているのは、その後、元禄13年(1700)に永貞本人が描いた副本か写しと思われます。

ただ、面白いことは、この六曲一双の片方の一隻に、「姉川合戦」、「賤ヶ岳合戦」が、もう一隻に、「関ヶ原合戦」、「長久手の戦い」が、描かれていますが、写真の通り、屏風の大きさも、表装の仕方も、大きく違っています。

おそらく、永貞さん、この大作を仕上げた後、その写しを幾通りか描いて、売り出したんではないでしょうか
大きい表装の屏風も六曲一双、小さい方も六曲一双、それぞれが作られたものの、それぞれの一方が失われ、残りを組み合わせたものが今回展示された・・・と、考えたいのです。

金沢市の前田土佐守 家資料館にも、幕末に筆写されたものがあるようです。精細に書かれた文字をガラスケース越しには読みづらく、写真データをパソコンに取り込み、モニターを利用して細部まで、詳しく観覧できる装置による展示が、実験的に行われたというニュースの中で紹介されていました。

写真 「四戦図屏風」、大小種類の屏風で一双となっています。

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2012年4月 6日 (金)

井戸村文書その2

何通か展示されていますが、もう1通紹介します。

浅井長政の父久政が出した年貢請取書です。

これについては、読み下し文が付いていますので写しておきます。

於福永北方切符之儀、Dsc01082
被仰出候間、
別紙ニ調進之候、
最前沢山ヘ相届候条、
急と可被申渡事簡要候、
時分柄候間、
不可有無沙汰候、
恐々謹言、
  十二月二日
     下野守久政(花押)
井戸村殿
   下代衆中


福永庄は、現在の長浜北中学区にありますが、そこに対する切符、ハイカラな言葉ですが、これが年貢請取書のようです。
浅井家の家臣、井戸村氏が、その福永庄の代官をしていることが分かります。

被仰出候間」と、最大限の敬意を表した表現で、これは守護京極家から出ていると考えることが出来るといいます。

澤山へ届けた・・・は、佐和山城へ届けたと、読みます。

それにしても、こうした古文書をすらすら読まれる方が、羨ましいものです。

井戸村文書に以前関わりを持っておられた方が、今回の公開を聞かれて、早速ご来館いただいたことを知りました。さすが、関心をお持ちの方は違うなあ・・・と、感心するばかりです。
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2012年4月 2日 (月)

♪今日は嬉しいお祭り日♪

朝が早く、前日にアップしますので、正確には「明日」です・・・・・。

何度となく登場した、「波久奴神社」ですが、ここは「田根荘(たんのしょう)」14か字の郷社です。祭神に物部守屋を祀るという異色のお宮さんです。

その例大祭「御神輿舁ぎ」は、玉くじに当たった町が舁ぎ手となって、毎年4月3日に執行されます。この祭りは、大きな御神輿が出ることで知られ、ほし店も並び丁度春休み中でもあり近郷近在から子ども連れの客で賑わうことで有名でした。

とりわけ、江戸中期の明和五年(1768)に造られたこの神輿は、350貫(訳1.3㌧)~400貫(1.5㌧)と巨大で重く、50人の舁ぎ手でぎりぎり、その人数集めに一苦労といったところです。

Img261
近くの神社でも、若者人口の減少で、台車に乗せたり、数年に一度合同でとかに改まってきています。ここでも、検討されたのですが、今少し頑張ってみようと、小さな町を大きい町に合わせ10年に1度の出仕ということになりました。

その玉くじ(年末抽選)が当たり、今年、当町と隣町とが「かきばん」となりました。

高張り提灯4名、旗持2名、本御輿を先導する子どもたち8名、先導2名、本御輿48名、舵取り8名、子ども御輿を先導する子どもたち11名、子ども御輿10名、付添5名、その他もろもろ、町内挙げての大イベントです。

自町から大鉦を叩いて参拝し、午前1回、午後5回、境内を所狭し舁ぎ廻ります。(重くて重くて、こんな表現は間違いです)
数年前までは、神様を慰める意味で、「船遊山」(=御輿を右左へ交互に揺さぶる)、「天井舁き」(=両手を差し上げて舁ぐ)、「地舁ぎ」(=腰をかがめて、地面すれすれに舁ぐ)などの、見せ場をつくっての巡行でしたが、現在は危険のため中止されています。

「もちまき」も午後の巡行の間に行われ、豪華景品?が出ます。午後の巡行は、2時頃からおよそ1時間程度です。ぜひお越しいただきたいのですが、なんと、なんと、その後は晴天が続くのに当日の天気予報は「雨」、覚悟してお越しくださいますようご案内申し上げます。

「雨」どころか、台風並みの春の嵐、暴風雨、40メートルの風、すごいことになって来ました。

図版 波久奴神社春季大祭「御神輿舁ぎ」御輿巡行経路図
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