2013年1月28日 (月)

最終の御礼を申し上げます。

昨年末、当ブログを閉じましてから、1ヶ月余りが過ぎました。

当初は、2週間に1回とか、月に2回とか、時々は、アップしようかなと思っていましたが、歳のせいでしょうか、この楽さ加減に(すみません)慣れてしまったら、もう手出し出来なくなってしまいました。

親しくしていただいた仲間の方のブログにも、コメントだけは入れたいと考えていましたが、それも一度入れたら、どなたかに入れたら、もう止められないんでないかと、つい億劫になって遠慮してきました。本当は、「あーー、書きたいなあ!なつかしいなあ!この内容になら、センスのあることが書けるのになあ!文句が言いたいなあ!」と、思うことが多々あったんですが、思いとどまってきました。この我慢?口枷をはめられているようで結構苦しいことだったんです。

ところで、閉じた私のブログをその後ものぞいていただいている方がおられることをうすうす感じておりました。「もしかして、更新していないかな。」と思って訪問していただいていること心苦しいかぎりです。

すぐに諦めていただくだろうなと思っていましたが、最近、私のブログでコメにかつてのブログ親友の方が対談?をしていてくださいました。

コメントは残されずとも、アクセス数は増え続けている事に感動しています。
今回は110036でした。 投稿: サラダ記念日 | 2013年1月20日 (日) 11時30分
現在「110150」です。すごいですね。 投稿: yawaragi | 2013年1月21日 (月) 10時11分
110530 ですわ 投稿: ◇☆★☆★◇ | 2013年1月24日 (木) 15時56分


そして、今日見ますと、この間にココログに4.754、コブログに5.023件、アクセスいただいて来ています。

あのような曖昧なかたちで、ブログを閉じましたので、ご迷惑をおかけして来たように思います。今、ここに至って、はっきりと再開するつもりのないことをお伝え致したく存じます。以後、内容の新規更新等はありませんので、お立ち寄りいただかないようお願い申し上げ、最終のお礼の言葉といたします。

本当に楽しいブログ時代でした。有難うございました。
Ph04

2012年12月21日 (金)

ありがとうございました。

NHK大河ドラマ「江」博覧会に際し、陰ながら「浅井歴史民俗資料館」を応援したいとの思いで続けて来た私のHP、ブログも、役目を終える時が来ました。

HP「江たち三姉妹とお市物語」は2011年2月、広い範囲向けココログ「江たち三姉妹とお市」は2011年5月、湖北向けコブログ「江たち三姉妹とお市ものがたり」は2011年6月にスタートしました。以来、本日で401回目を迎えました。

当資料館の施設、展示内容、事業の紹介をメインに、浅井氏、お市三姉妹、戦国時代一般、さらには田根荘での出来事など、種々雑多な内容でお茶を濁して来ました。

Dsc03552この間、つたない内容ながら、多くの方々にご訪問いただき、アクセス数はココログ136,825コブログ106,156という、当初考えてもみなかった数字になりました。幅広い方から、コメントも頂戴し、ブログ友達との交流という貴重な体験もさせていただきました。また、かつての教え子さんたち、初恋の人?との交流などという、思いがけない副産物にも巡りあいました。

昨年末、「大河江博覧会」終了時点で、当時当ブログの今後についてでも触れていますが、スパッと幕を引く予定でした。しかし、引き続いて「大河ふるさと博覧会」が開催されることとなり、止めるタイミングを失って来ました。


「大河ふるさと博」が閉幕した今、ふたたび、様々な方から、引き続いて・・・とのお声もいただきましたが、もう脳味噌も枯竭し、田根も無くなってしまいました。「平川地一丁目」にあやかり、わたしも引退させてください。

20121001_3010341NHK朝の連続小説「純と愛」、そのテーマソング「いちばん近くに」に気になるフレーズがあります。
「♪ねぇ はじめて出逢った日のこと あなたは覚えてるぅ?♪」
葉すら交わしてないのに なぜかあなたを近くに感じた♪」
こんな言葉にハッとしながら、過ごして行きたいと願っています。

写真 上 浅井歴史民俗資料館内の「糸姫の館」    下 NHK朝の連続テレビ小説「純と愛」のタイトル写真



追伸? このように中止したHP,ブログは、どうなるんでしょうか。放っておけば、自然に消える?本部が削除する?何日か、記事を更新しないと消えるとも聞いたことがありますが・・・。どなたか、最後に教えていただけるとありがたいのですが。
 

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2012年12月18日 (火)

見事な幕引き!「平川地一丁目」

2008年の夏、惜しまれつつ解散を決めたフォークデュオがあります。

その名は、「平川地一丁目」です。2003年、ソニーミュージックオーディションで4万人の中からグランプリに輝き、メジャーデビューした当時中学二年生と小学六年生だった佐渡島在住の兄弟です。

Img_105686_11109305_1_2その頃、5人兄弟の一番下を連れて母親が家出をしてしまったそうです。その寂しい思いを曲にし、歌っていたところを認められ、有名になれば、母と再会できるかも・・・と、オーディションを受けたといいます。

デュオ名「平川地一丁目」も、家族みんなで一緒に住んでいた静岡県の地名で、ビッグになれば母親も気づいてくれるだろうという悲しい思いが込められています。

作曲担当は兄で、弟がメインボーカルをつとめていました。
  ♪もう少しだけ愛してください 僕たちを
  ♪あと 少しだけで いいから
  ♪ほんの少しだけで いいから
どの曲にも、どことなく母を想う気持ちを、思わせるようなフレーズがあり、泣かせます。

13003オリコン初登場で7位、以後40曲、母親も戻り声変わり期も乗り越え、CD、アルバム、DVD、ラジオ番組、映画出演、舞台出演と、精力的にこなして来ました。

1回だけでいいから、一緒に出て唄ってという、兄の願いからスタートした5年間でしたが、兄は、弟の高校卒業を前にして、解散という一大決心をします。事務所の意見や全国のファンの熱烈な惜しむ声も耳にしてはいたと思いますが、愛する弟の人生を思って出した兄の決断だったと思います。

以後、二人のHPは閉じられたままです

写真 上 デビュー間もない頃の「平川地一丁目」  下 解散を控えた頃の「平川地一丁目」 
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2012年12月15日 (土)

お身体が不自由な皆さん、安心して湖北路へ!

HP、ブログ界へ飛び込んで、最初にお友達になった人にyawaragiさんがおられます。

この方、すごい人です。定年退職後、自らの技能や趣味・関心を熟考され、自らの今後の人生をかける仕事として、「福祉タクシー事業」を立ち上げられました。

Img_365508_9918940_3身体に障害を持っておられる方、一時的に歩行に困難をきたしておられる方、高齢の方で移動手段に不便をきたしておられる方は、かなりの数にのぼるはずです。

あなたの足としてお気軽にご利用ください。”おもてなしの心”で応対させていただきます。」と、書かれていますが、 まさに、おもてなしの心では、この人の右に出る人はいないと思われるお人柄です。

たまたま、最近、滋賀県の「がんばるシニア起業家応援事業」の第1回として、yawaragiさんが取り上げられ、インタビューを受けておられる様子が、県のHpに紹介されています。

その中に、「人が寛げる雰囲気を醸し出す素敵な笑顔の持ち主の坂東さんが、事業にかける熱い思いや今後の夢について語ってくださいました。」とありました。さすが、プロはプロらしい目で人物を見抜いています。

この人のすごさは、もう一つあります
好奇心、探求心、行動力に満ち溢れた人で、近隣の名所、旧跡、観光地、行事をくまなく自ら探訪し、その素晴らしい写真を主体にHP、ブログ上に次々と公開しておられます。湖北観光に関する体系的な百科事典が出来つつあるようにも思っています。
Bannerタクシー利用者への観光案内にとどまらず、湖北路観光のスペシャリストとしての存在は大です。湖北探訪で迷われたら、ご相談されるのも一考かと思います。



料金をいただいているのに「ありがとう」と感謝してもらえる仕事と、感激しておられますが、yawaragiさんの本物の「おもてなしの心」に接したら、誰もが感謝の気持ちを表したくなるのは必定だと思います。

地域の方には、病院や施設への送迎、施設からのふるさと探訪、墓参などなどに、ご利用の道すがらお近くの観光案内もしていただけるかもしれません。

また、全国の皆さんには、近江湖北は、戦国期のみならず無数の観光地が狭い範囲に散らばっています。yawaragi号での旅に格好の地域です。決して、期待を裏切ることはありません。四季おりおりに様々な顔を見せる近江の魅力を、ご堪能いただければ幸いです。

写真  上 チラシです。    下 yawaragi号 ご利用の場合は、この電話番号をご利用ください。(ともに、yawaragiさんのブログから拝借しました。)

お断り  この記事、yawaragiさんの了解を得ずに書いています。あしからず。

2012年12月12日 (水)

ポツンと神社が・・・

虎御前山東麓の大洞村を探していたときのことです。

ふつう、村の氏神さんや郷社は、どこかの集落の中か、近くに鎮座していることが多いのですが、その神社は広い田んぼの中にポツンとありました。
Dsc03463_2「一体どこの・・・?」疑問に思い近づいてゆきました。「王内儀神社」とありました。不思議な社号ですが、主神が「神功皇后」と聞いて納得しました。銘板には、「この地域はいつも田川の洪水に悩まされ、しかも大きな沼地となっており人々が沼へ引き込まれ、困窮していた。それを見た、神功皇后が哀れに思い救ってくださったので一社を建立した。」と、ありました。

田川」の土手下で、「錦織荘」(難波・錦織・酢・田・大寺・月ヶ瀬・唐l国)の最上流部に、この神社が鎮座していることに興味をもちました。

「田川カルバート」建設の機運がわきおこる地域、錦織荘にとって洪水が鎮まることは最大の願いごとで、その祈りを捧げる地として、村から離れた荘へ川が流れ込む地点に、この神社を建立した悲しいまでも必死な当時の村人の気持ちが伝わってきます。

Dsc03462_2なお、この神社については、浅井亮政も「誠尽くすなら霊験は忽ち現れ、神威を犯すなら忽ち罰があたり、崇拝すべきである。」と、書き残したという記録があるそうです。

写真 上 田んぼの中に見える「王内儀神社」、背後の土手は「田川」、山は「虎御前山」  下 境内風景



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2012年12月 9日 (日)

井伊直弼が虎姫へやって来た!

私たちの田根荘を源流とする「田川」(過日、砂山として紹介した川です。)は、江戸時代琵琶湖の船が虎御前山の麓の丸山港まで登って来るという川でした。その「田川」は、虎姫学区で「高時川」の下をくぐっています。

これを、「田川カルバート」といい、そのハイカラな名前からしても、本格的な工事は明治中頃滋賀県がお雇い外国人技師を使い建設したものです。

A1026_l当初、「田川」は「高時川」に合流していたのですが、「高時川」の川底は年々上昇し、天井川の様相を呈し、「田川」の水がうまく流れ込まず、少し雨が降れば付近で溢れ出し、田んぼはもちろんのこと、近くを通る「北国街道」も水没してしまうという有様でした。大名行列なども、船や筏を利用することもあったといいます。

この水を吐く方法として、この川の下を川がくぐるというアイディアが生まれ、江戸時代から地域の人々の悲願として訴えられ、様々な曲折を経て、挑戦し続けられてきました。

嘉永3年(1850)、虎姫4カ村は領主に願い出、下流の庄屋に打診するところからスタートしました。しかし、容易に進む話ではありません。

安政2年(1855)、4カ村が大津役所宛に嘆願書を出しています。
その一節に「拾ヶ年之内七八ヶ年ハ水腐、(収穫)皆無ニ・・・・・」、「去ル子年井伊掃部頭様御順在之儀有之其筋前段村々土地柄見分之上御慈悲之思召ヲ以右悪水引取方御配慮彼成下・・・・・・。」と、あります。

嘉永5年(1852)「子年」に井伊直弼が情況検分のために來村していたことが分かります。
万延元年(1860)井伊大老が「桜田門外の変」で刺されるまで、あと8年です・・・・・・。

文久2年(1862)工事完成、明治3年改修嘆願書、明治13年御雇外人技師調査明治18年改修竣工、明治25年改修工事竣工、昭和4年、昭和31年、昭和36年改修、昭和41年鉄筋コンクリート製2連カルバート竣工

写真  「田川カルバート」の現在 上流虎姫学区側から  滋賀県HPより

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2012年12月 6日 (木)

五先賢海北友松(ゆうしょう)の友情

この秋、小堀遠州四酔会と田根郷土史研究会の共催で「五先賢を京都に探る旅」が企画されました。

「湖山」に関わって「妙心寺」、「遠州」に関わって「金地院」と巡り、最後は「海北友松」の菩提所である「真如堂」を訪れました。

「友松」が、浅井家の家臣「海北善右衛門綱親」の五男で、父の戦死後唯一仏門に入り生き延び、画才を認められ狩野派に学んだことは有名です。今回の旅でも、あちこちで友松の作品を目にし、さすが武門の血を引く友松ならではの筆の跡を確認することができました。

Dsc03425何よりも、興味深かったことは、親交のあった明智光秀の重臣「斎藤利三」の墓と「海北友松」の墓が、ぴったりと隣り合わせに建っていたことでした。

明智光秀の謀反により、親友であった「斎藤利三」が本能寺跡で、その首をさらされていました。それを知った海北友松は、その首を見張りの武士に槍を突きつけ奪い去ったと伝わっています。

この時、長陽坊長盛という仲間の僧侶が大きな声で読経し、注意を逸らしたともいわれ、その僧が住職を務める真如堂に葬ったのです。友松は、自分が死んだらこのそばに葬ってくれるよう遺言し、この写真の通りになったというお話でした。

画家とはいえ、さすが武士の流れを汲む友松らしい武勇伝と聞かせてもらった次第です。

写真 京都真如堂にある二人の墓、手前が「斎藤利三」、奥が「海北友松」の墓です。妙な写真ですみません。 

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2012年12月 3日 (月)

漆黒の闇の中を歩む

全国各地に、戒壇巡りという寺院の本堂の地下を巡る信仰があります。元善光寺、祖父江善光寺、谷汲さん、善通寺などなど枚挙にいとまがありません。

地下通路の長さ、幅、暗さなども、いろいろで、かなり明るい感じの所もあります。
Dsc03685過日参拝した長野の善光寺は、さすが本格派、最初の階段を下るとすぐそこから、全く何も見えない暗闇の世界が続きます。しかも、長いのです。一瞬、抜け出せなかったらという思いがよぎるような長さです。

地下中央に、本尊の秘仏の阿弥陀如来に直結しているという錠まいがあって、それを探り当てガチャガチャ鳴らすと極楽へ行けるといわれています。

今回は、何人かでわいわいがやがや言いながら巡りましたが、前回は私たち夫婦だけでした。漆黒の世界で、誰か手を握っていてくれる人が一人いる幸せを噛み締めながの戒壇巡りだったことを思い出します。

しかし、人生の最後は、独りでこの暗闇を歩んでゆかなければならないのかなと、ふと思ったことでした。

写真 長野市善光寺本堂

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2012年11月30日 (金)

早いもん勝ち

決定が遅れていて、もしかすると打ち切りかと噂されていた、再来年のNHK大河ドラマのテーマが決まりました。

三成か、光秀かとも言われましたが、なんと、「軍師官兵衛」秀吉の参謀役として全国統一に大きな役割を果たした黒田孝高(よしたか)、黒田如水です。

その発表の直後に、早速、写真のようなのぼり旗が当館にも届けられました。華やかな右側の大河博のものと違って、白黒の簡素なものですが、言いたいことが直截的に書かれています。

Dsc03792軍師官兵衛の黒田家発祥の地としての近江国伊香郡黒田村(現長浜市木之本町黒田)にあやかり、大きくこの地域を、もう一度売り込もうとする意図ありありです

昨年の大河ドラマ「姫たちの戦国ー江たち三姉妹」関連で130万人もの来場者を得て、今年、市長の肝いりで「二匹目のドジョウ」を捕まえんとしましたが、残念ながら思ったほど獲れませんでした。

そこへ、今回の話です。がっかりしていた長浜が飛びつかないはずはありません。「三匹目のドジョウ」捕獲作戦の開始です。

皮肉っぽく書いていますが、当館こそ、それに便乗、「戦国大河ふるさと博」フィナーレイベントとして、NHKチーフプロデューサーを迎え「戦国武将と軍師官兵衛」と題する講演会を開催することになっています。

この黒田出身説も、「寛永諸家系図伝」には書かれているものの、その後の文書にはなく、疑問視されてもいます。旧長浜市の西黒田学区も、名乗りをあげるとか、賑やかになりそうです。

写真 当館に立てられた「のぼり旗」、中央奥は郷土学習用「あずまや」建設工事の様子です。

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2012年11月27日 (火)

伊部本陣に無い真ん中の川

あちこちの宿場町の古図や写真を見ると、街道の真ん中に川が流れています。
これは、宿場を利用する旅人が足を洗い、馬を洗うために使用したものと思われます。

木之本宿でも、昭和10年ころまで、道路の真ん中に水路があることが、写真からもわかります。むしろ、その頃まで残っていたこと自体が、不思議だとも思えますが・・・。
Dsc03632その後、交通量の増加、自動車の普及などから、この水路は埋設され道路を広く使うようになってきました。

ところで、伊部本陣の場合は、どうでしょう。

江戸時代末期(文政年間)の伊部宿家数絵図を見ると、中央水路は描かれていません。一体どうなっているのでしょうか。

答えは、伊部本陣の場合、小谷山、雲雀山からの豊かな水量の川が幾筋もあり、街道を横断する形で流れているのです。

この絵図を詳しく見ると、何と街道を6箇所にわたって横切る川があり、それぞれに「はし」と書かれています。
Dsc03947ab_2街道に沿う川の場合、汚れた水が下流に流れることになりますが、横断する場合は絶えず美しい水が流れ込むという利点があります。

ただ、「はし」とあることは、蓋があるわけで使用する際にはそれを上げる必要があり、うまく元に戻しておかないと暗い夜道で川にはまる人が出ないのか・・・下世話な心配をしています。

写真 上 昭和10年頃の木之本宿(山路酒造さんご提供)  下 伊部宿家数絵図(文政3年1862)上が西です
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2012年11月24日 (土)

几帳面な伊能忠敬と伊部本陣

国内をくまなく歩き日本全図を完成させた伊能忠敬が、几帳面なことは誰でも想像がつきます。

当然ながら、忠敬は測量の途次、詳細な日記をつけています。何時、どこへ泊まり、何をしたのか、そして宿で出たご馳走についても記録しています。
Dsc03930企画展「北国脇往還」に関連して展示されている、伊部本陣肥田家文書にも、これまた当然ながら詳細な記録が残されています。その中には、何時、だれが泊まり、どんな料理を出したかについても、書かれています。

伊能忠敬は大名ではありませんが、幕府の命で測量しており、各地の本陣で宿泊を許され、伊部本陣にも泊まっています。

この日の?この夜の?食事の記録が、伊能忠敬の日記と、伊部本陣の記録とが一致するというのです。

これぞ、同時代文書がダブルで見つかるという正真正銘の歴史記録といえます。

なお、各大名は参勤交代に際して、料理人を連れ主たる食材は持参していたそうで、本陣は不足する食材だけ調達していたことも読み取れると伊部本陣の現当主が話してくださいました。

写真  展示中の伊部本陣海道帳、本文に該当する部分ではありません。

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2012年11月21日 (水)

「下総」と「上総」のこと

「上総」「下総」、これは、「かづさ」「しもうさ>」と読み、ともに千葉県の旧国名です。

滋賀県は「近江」一国ですが、千葉県はこの「上総」と「下総」、それに「安房(あわ)」の3国から成り立っています。

588a26b3dc570ec80e5bb7c49b697e2bこの3国、茨城県、東京都よりに「下総」、続いてその南に「上総」があります。地図で、上下は言わないにしても、上が「下総」、下が「上総」ということになります。

その理由は、都、京都に近いか遠いかで決まっています。
それでも、京都から東海道が日本橋まで来ていて、その後を歩いたとすると、どっちが近いか遠いかはっきりしています。どう考えても、「下総」にあたる地域が近いはずです。

その答えは、何か?

東海道が整備される以前は、東海道に海上交通の海路も含まれていたといいます。従って、江戸時代以前の関東方面との交通は海路の方が栄えていたそうです。

この海路を使うと、「下総」より「上総」の方が京都に近くなるということです。これで、一件落着ですね

2012年11月17日 (土)

お隣だから余計ややこしい

この夏、みちのく秘境めぐりツアーに参加しました。

旅程表に、前日に、五能線沿線の「十二湖、翌日は「十三湖」が下車観光地になっていました。ともに、青森県の観光地です。

ちなみに、「十二湖」は、これもややこしいのですが、実際は三十数個ある湖が、ある地点からは十二個見えるのでその名がついたといいます。

56607742この十二個の十二湖の中でも、群を抜いて美しいのが「青池」と呼ばれる湖(池)です。今もって、その美しさの理由はあきらかでないといいます。その池の水のコバルトブルーというのか濃い藍色は、今までにどこでも見たことのない、月並み過ぎて恥ずかしいですが、言葉では言い尽くせません。

是非一度と、どなたにもお薦めしたくなる観光スポットです。太陽光の加減もあるようで、日によるとも・・・。

ところで、翌日訪れた「十三(じゅうさん)湖)」ですが、これはたった一つの湖が、そう呼ばれます。シジミ漁で有名なこの湖の十三とは、13の河川が流れ込んで出来た湖だからだそうで、十三湖は(とさこ)と呼ばれていました。
Dscn3263ところが、元禄13(1700)年に、津軽家5代藩主・津軽信寿が土佐守に任じられたことから、それをはばかって「十三」は「とさ」から「じゅうさん」というハイカラな?言い方に改めたといいます。

かつて繁栄した湊町・十三も大津波や洪水などによって、砂山が残るだけになってしまったといいますが、この湖畔で食べた「しじみソフト」は、予想外に美味しいものでした。

写真 上 「青池」   下「十三湖」  都合により、ネットから拝借

2012年11月15日 (木)

ちょっと、心残り!

私たちの田根荘では、「子ども見守り隊」が組織され、手すきの者が登下校を見守っています。

この日、小2の孫娘に少し着いてゆくと、ちょっぴり邪魔にならない程度の小雨が降ってきました。先を見ると、同級生の男の子が、コウモリをさして行くのが見えました。コウモリは、通学には普通には許されていません。
Imagesca42ji06孫娘が、「カバンの中にカッパがあるか調べて!」と言うので、見ましたがありません。取りに帰って、自転車で追っかけますと、男の子が待っていてくれたのか孫が追いついたのか、二人が相合傘で、ニコニコ喋りながら歩いて行くのが見えます。

長い竹の塀の続く道に、二人の小学生の相合傘、前後に誰もいません。

一瞬、カメラを取りに帰ろうかとは思ったのですが、不思議な写真が残るのもいいのかどうかとも思い、そのまま追いついて、家にカッパのなかったことを伝えました。前日が、長浜城近くへの校外学習のせいでしょうか、全くの偶然、二人とも同じ日にカッパを忘れたことになります。

こんな可愛いことが出来るのは小2だからで、集合場所へ行ったら上級生に冷やかされることだろうなと、ちょっと気になりましたが丁度いい具合に雨が上がってきました。

私の姿を見て、恥ずかしそうに男の子から離れた孫娘に、追っかけるように傘を傾けて差し掛けてくれている男の子のやさしさに、なんともいえない幸せを感じさせてもらったひと時でした。

こんな偶然、2度となく、ブログ用にいい写真が撮れたのにと残念に思う反面、これで良かったんかもと自分を慰めています。

写真 申し訳ありませんが、ネットからお借りしました。「素敵な芸術写真」です。でも、実際はもっと親しげに歩いていました。

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2012年11月12日 (月)

亀塚古墳図からNo.2

続きです。

この図を描いた人のことについて、この図では、「慶長六年十二月三日 御代官様日下氏画之」とあります。

御代官様と、「」が付き、「」が付いていて、代官の描いた図を模写したことが分かりますし、この日付は、代官が描いた日のことと考えるべきでしょう。

Dsc03604当然ながら、慶長六年より後の人が模写したものです。(その意味では、当館展示の解説パネルの年号は、ちょっと気になりますが・・・。)

それと、代官の名が、「日下氏」とありますが、この地の代官として名を残す人、また、慶長年間に代官だった人は、「日下部善助」が知られており、模写した人が、写し間違いをしたものと思われます。

代官様のお名前を間違えるなんて、由々しきミスをすることから考えて、この模写は相当後の世の人が行ったと考えるべきだと思います。

この日下部善助は、以前「宿場免許の争奪戦に敗れる」(2012.8.31)で紹介した、尊勝寺村を栄えさせた人であり、慶長6年(1601)、徳川家康が本願寺の力を削ぐため教如を本願寺の門跡に復帰させる前、この地域に五村別院を建てた時、中心になった人物です。

写真 当館主催「北国脇往還を歩く」での亀塚付近、太田先生が説明中です。

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«亀塚絵図から分かること